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「正しさ」とは何か

昨今のインターネットやメディアを中心に、ある種の「正しさ」に立脚する物言いが目立ってきているように思う。そうした立場に立つ人は、まるで「正しさ」と言う完全無欠の水準があって、それを盾にできる限りは何を言ってもいい、と想定しているかのように見える。しかし、その想定の妥当性は極めて疑わしい。

いくつか事例を挙げてみよう。ある種の「正しさ」を盾にした苛烈な誹謗中傷はその際たる例である。何か間違いを犯してしまった人に対してのみならず、何らかの形で既存の文化的規範に収まらない人(例えば、ジェンダー規範に倣わない身なりや振る舞いをする人)に対しても、誹謗中傷は後を絶たない。そうした言葉の暴力を見ていると、その行為主体である人々が自らを「正しい」側に位置づける仕方には、一つ特徴があるように思われる。それは、彼らは多くの場合、暴力的な言葉を発する自らの行為それ自体を始めから「正しいもの」として提示してはいないということである。彼らは、彼らが攻撃する対象を「正しくないもの」であるとまず意味づけることによって、遡及的に彼ら自身の振る舞いとその攻撃性を、認められて/看過されて然るべきものとして、すなわち「正しい」ものとして主張しているように見える。しかしながら、そうした言葉を放つ人々に限って、そのような側面には極めて無頓着であるように見える。

別の「正しさ」の事例を挙げてみよう。「論破」という言葉をしばしば聞くようになったのも、その一つの表れであるように思う。「論破」という言葉の使用に透けて見えるのは、そこであらかじめ想定されている人間同士の関わりが「正しいか/正しくないか」の二項対立によって意味づけられていることである。その理解においては、「正しい」とされる側が「正しくない」とされる側に対して、「論破」という振る舞いによって、一方的に交流を断絶できる立場を得ているようである。その一方で、その振る舞い自体の暴力性や、一方的にその場のコミュニケーションを「勝ち負け」で意味づける自己中心性は、そうした振る舞いをする人々にとってはほとんど問題になっていないようである。

もう一つ事例を挙げてみよう。「正しさ」がよく引き合いに出される場の一つに、私たちの生き方に関する言説がある。例えば、大学を卒業して、就職し、結婚して、子どもを産み育て、その子どもに学校教育を受けさせて、適当な年齢で巣立たせる……といった、人々が成長する過程で幾度となく目にする人生設計の観念があるが、これを「いくつもある人生の形の一つに過ぎない」とすることはできない。なぜなら、この人生設計の観念の隅々まで、広義の「正しさ」、あるいは「〜するべき」という規範が刷り込まれているからである。実際、学校を卒業しないこと、就職しないこと、結婚しないこと、子どもを持たないこと、子どもを家で教育すること、子どもと長く一緒に暮らすこと等には、しばしばネガティブな意味が付き纏う。それらの選択それ自体を「正しい/正しくない」と判断できるような立場はほとんど考えられない一方で、上記の文化的に共有された人生設計の観念に沿うことを他者に期待したり、それに沿わない人を揶揄したりするような人々は、時に自らの物言いの正当性を、疑う余地のないものであると想定しているように見える。

上記の例を振り返ると、「正しさ」を後ろ盾に行われる行為は必ずしも「正しい」行為ではない、ということが言えるように思う。上に挙げた例のいずれにおいても、行為やコミュニケーションにおける盤石な立脚点として暗に引き合いに出される「正しさ」は、他者への度を越した攻撃や、他者に特定の選択を迫る抑圧を無批判に促すものとして機能している。この状況における「正しさ」は、「人として『正しい』ことをするべき」といった物言いにおいて意味される「正しさ」とはやや異なっているように思われる。それでは、行為の妥当性や正当性を示す上で参照される「正しさ」とは何なのか。その「正しさ」に立った物言いや行為は、実のところ何をしていると言えるのか。

上記の問いに部分的に応答するにあたり、私は以下で二つの点に注目する。一点目は、「正しさ」の概念は普遍的なものではなく、その意味はそれが使用される時代や文化における価値体系に依存しているということ。二点目は、ある人が「正しさ」で「正しくない」人を評価するとき、その二者間の関係が非対称的になっていること。この二点の確認を通して、「正しさ」を出発点とする物言いが、他者や物事についてのどのような理解の仕方に私たちを導くのかを考えてみたい。

まず、普遍的な「正しさ」は考えられないということを認めておきたい。私たちの社会では「人の命は奪ってはならない」という、ある種の「正しさ」が概ね共有されている。もしこれが普遍的であったなら、過去から今に至る人間の歴史は、私たちが背負っているものとは大きく異なっていたはずである。しばしば言われるように、人間の歴史は血塗られた歴史であり、命を奪い合う闘争は日本を含めて世界中で繰り返されてきたし、今も続いている。「人権」という概念が生み出されたことは、まさに「正しさ」がどこかから普遍的な形で与えられるものではないことを示している。個々人の生命と尊厳が守られなかった歴史を抱えた上で、人々がともに生きていくために、人権は概念化されなければならなかったのである。

上記が意味するのは、「正しさ」はそれが属する文化、社会、そして政治的状況に依存するということである。あらゆる概念と同様に、「正しさ」も、それをある特定の意味を持つ概念として形づくる何らかの価値体系に属していなければ、何の意味も持ち得ない。文脈から独立した、それ自体で完結した概念としての「正しさ」はどの時代にもどの社会にも見つからないはずである。

この点を踏まえた上で、二点目を確認したい。私が注意を向けたいのは、ある人が「正しさ」を盾に誰かを糾弾したり、中傷したりする際の、二者間の関係の非対称性である。AとBという人がいて、AがBを「正しさ」の立場から非難していると仮定する。「正しくない」とされたBは、徹底的にB自身の個別的な行為や振る舞い、選択において名指され、「具体的な個人」としてその関係において位置づけられる。その一方、「正しい」側であるAは、A自身の経験や、Bとの個別具体的な関係において自らを位置づけるのではなく、何よりも自分自身を「規範」として位置づけている。この関係において、「正しくない」とされる側は名指されたBでなければならないが、「正しい」とされる側がAでなければならない理由はない。すなわち、Bが自身の行為や振る舞いに対する責任を一身に引き受けることを求められている一方で、Aは「正しさ」という規範が伴う匿名性を纏うことで、程度と場合によっては暴力や誹謗中傷ともとれる自身の行いへの責任を免れているのである。

ここまでで確認したことをまとめよう。まずあらゆる「正しさ」は特定の文化、社会、そして政治的状況において形成された価値体系に依存しており、時に想定されるような普遍的な「正しさ」などというものはないということである。私たちにとっての「正しさ」は、私たちが生きている状況や環境に特殊な「正しさ」であり、すなわち「規範」である。したがって、特定の「正しさ」で人の行為を評価することは、その行為に内在的な意味を求めることではなく、その「正しさ」が規範として機能している文脈における意味を求めることに過ぎない。そして「正しさ」を自らの立脚点として他者を評価する者と、それに評価される者の力関係が非対称になるのは、片方が「規範」という名指されることのない仮面を被り、個人としての立場から退く一方、もう片方だけが、個人として自らの行いに対する責任を負うよう求められるからである。

以上を踏まえた上で、最後に、「正しさ」に立脚したコミュニケーションの仕方が、どのような物事の捉え方に私たちを導くのかを確かめたい。冒頭に挙げた「正しさ」を行使した例にも表れているが、論拠として規範としての「正しさ」を参照することは、結果として、私たちの他者や物事の理解の仕方から曖昧性を捨象してしまうように私には思われる。すなわち、あらゆる事象が「正しさ」との一対一の関係に押し込められ、思惟の対象を「正しいか/正しくないか」でしか捉えられなくなるということである。私は、これには弊害があると考える。

私たちの中で、生きている時間を通して常に「正しい」側にとどまる人は稀だろう。私に関して言えば、これまでに自分の間違いを人の目から隠してしまったこともあるし、相手を傷つけるかもしれないことを承知で、特定の関わり方をしてしまったこともある。より広い文脈に目を向ければ、私は今までの人生を通して、世界で戦争が起こっていることを情報として知ってはいたものの、それが「何の罪もない人々が殺されていること」だときちんと理解してこなかった。だから何も行動してこなかったし、よく知ろうともしてこなかった。助けを呼ぶ声に耳を傾けなかった私の行いは、どう考えても正しいとは言えない。

私が冒頭で問題にした「正しさ」を中心とする言説なら、そうした私の行いを正しくないこととして糾弾するだろう。別の言い方をすれば、正しくないことをしたということ自体を、最も重要なこととして意味づけるだろう。ここで、そのような意味づけによって思考の対象になりづらくなるものがあるように思われる。それは、正しいとも正しくないとも言えない態度や状態である。例えば以下のような状態が想像できる。ある日は戦争についてよく知ろうとするものの、その行為によって得られるある種の責任を果たしているような感覚に落ち着いてしまい、数日後には調べることをやめる。その後も表立った行動はしないが、罪悪感を抱えることになる。ストレスのかかる日々を過ごすのに手一杯で、ますます罪悪感ばかりが募る……。

こうした具体的な個人の経験の意味を捉える際、一般的な行動原則を対象とする「正しさ」を事後的に参照し、「正しいか/正しくないか」の判断によってそこに横溢する曖昧さを捨象することは、現在という、解釈が決して追いつかない混沌を生きる個人の人生を都合のいいように還元する行為である。私がこれを問題だと思うのは、ずっと正しい訳ではない(多くの)人が「正しくあろう」とする契機は、正しいとも正しくないとも言えない両義的な状態における葛藤にあるのではないかと思うからだ。自分の思っていた「正しさ」が必ずしも正しくはないことを他者と関係する中で知ったり、正しくない行いをすることで目指すべき「正しさ」が見えるようになったり、視点によっては正しいとも正しくないとも言える過去を抱えたりする中で、暫定的な意味づけを自分や他者に与えてはそれを繰り返し書き換えることによって、私たちはできるだけ「正しくあろう」とするのではないか。始めから「正しさ」に立脚し、その上で他者と対峙しようとする振る舞いは、生きることに伴うそうした曖昧さを考慮できない。その立場に立つことを選ぶ者は、自分自身を「正しい」側にいるものと信じ込む一方で、目の前の個人を傷つけ続け、その人が変わることを妨げ続けるだろう。

※ある会社の新卒採用への応募に際して書いた文章です。提出してから二営業日後にお見送りメールが届きました。自己PR等、毎日反吐が出るような文章ばかり書かなければならなかったこともあって、これは書くのが楽しかったです。思い出に載せます。

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