穴の空いたバケツで、どれだけの水を泉から汲むことができるか?
ぼくは、この世界が科学によって記述されるもの、或いは、ぼくらが言葉にできるものだけで構成されているとする言説を信じない。以下に記すのは、そのような視点を採用した上で、ぼくらにとって馴染み深い「言葉」という装置を見つめ直したとき、およびそこで浮かび上がったものを通して立ち現れる「人」を見つめたとき、ぼくが考えたことである。ひとりでごはん食べてるときとかに読んでもらえると嬉しい。
科学的に記されたものしか信じない人々に向かって、それでもぼくらは非科学的なものや知覚できないものに包まれ、またそれを内に含んでいさえするのだと主張することに、変化を引き起こせるような望みはあるのだろうか。それが個別の状況に少なからず依拠していることを踏まえたとしても、ぼくは、その望みにはあまり期待しないほうがいいだろうと答える。というのも、恐らくそうした人々は、非科学的なものの存在を科学的に証明することをあなたに要求するからだ。曖昧なものを切り落とした二元的な価値観のもと、彼らが非科学的なものを科学的なものの劣位に位置づけ(この操作が彼らによってなされていること、すなわちこの優劣が「真実」のようなものを反映しているわけではないことを、彼らは知らない)それを揺るぎない前提として設定したのち、何らかの証左の提示を求める姿は想像に難くない。彼らはそのように振る舞うことで、対話(の可能性)を破綻させ、実際には何の根拠にも基づいていない科学の優位性が脅かされることを力ずくで回避し、この世界を、理解可能な居心地の良い場所のままに保とうとする。非科学的なものに対する応答がしばしば揶揄の形を取ることからも、この試みがある種の「恐れ」に動機づけられていることは明白なように思われる。したがって、きっと分かってくれるはず、といったような期待とともに、これに真正面から立ち向かうのは良策とは言えない。諦めずに対話を試みるにしても、その恐れをほぐすことから取り掛からなければ、十中八九消耗して疲弊するだけである。
しかしながら、いくら科学の傘に収まらないことを(意識的にであれ無意識的にであれ)排除しようする者がいようと、それに遭遇した人々の経験がなくなることはない。それはその人によってすでに経験されたのであり、したがって、ここで選択するべきは、その経験が「ほんとう」かどうかを問うことではなく(真偽の確認はぼくらを科学の信仰および二元論に連れ戻すだろうし、そこに前向きな知は生まれないように思われる)それがどのように経験されたのか、その人が何をどう感じたのかに耳を傾けることである。
例としてぼく自身の経験を少し述べることにする。ぼくは時折、木々に愛されていると感じる。葉擦れの音に耳を澄ませたり、木漏れ日が家屋の壁面に揺らめいているのを眺めたりしていると、命あるものすべてに向けられた生命の肯定のようなものが、木々の辺りから胸に沁み入ってくるのである。そしてこの感覚は、精神的に衰弱しているときほど強く感じられる。大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、消えていなくなりそうだった去年の後半は、この感覚がぼくの生の支えのひとつだった。抑鬱と過食から深まるばかりの自己嫌悪に陥っていたものの、でも自然は愛してくれてるしな...などと考えていたら、結果的に死ぬことなく、辛い状態を通過することができた。眠れない夜には薬を服用することもあったけれど、木々から受けとるその感覚は、それと同じくらいぼくを助けてくれた。
この経験を科学のもとで描写するのは、極めて難しいだろう。それはふれられない上、ぼくを除けば証拠になるものは何もないし、客観的な立場から何らかの社会構造の内に位置づけることも恐らく叶わない。さらに言えば、ぼく自身、上に並べた言葉でこの経験を余すところなく語れているのかどうか、まったく自信がない。というのも、この経験に伴う感覚を語る際に参照できる概念が、せいぜい「愛」くらいしかないのである。つまり、上の経験を含んだ知識体系や文化的規範が、少なくともぼくが言語を使用する環境には根づいていないため、既存の概念では説明しきれないと思われる部分(実際それがほとんどなのだけど)については、自らの手で、自らの感覚だけを頼りに、一から言葉を組み立てることを余儀なくされているのである。さて、ここまで聞いてくれた人々はこう問うかもしれない。これほど曖昧でつかみ所のない、まるで自分には関係のなさそうな語りに耳を傾けて、一体何の役に立つというのか? しかしぼくは、上述した経験と本質的には非常に近いことを、人は誰しも経験しているのではないかと思うのである。それも、日常的に。
ぼくと木々の関係と、それを語ることの難しさは、人によっては突飛な話に思えたかもしれない。しかしぼくには、同じような現象が、人間同士の関係にも内在しているように思えてならないのである。たとえば誰かの近くにいるとき、ぼくらは時として、その人が此方に向ける関心や感情に気づくことがある。それは相手の視線やかすかな身振りによって引き起こされるものだ、と理解する向きがあるように見受けられるが、相手の視線および身振りと、関心や感情の知覚との間には、明らかにその説明だけでは埋まらない距離がある。見えていないにもかかわらず、如何して他者の視線に気づくことがあるのか。そばにいるだけなのに、如何して相手が戸惑っていることや、集中していることが何となく分かったりするのか。これらを気のせいだとするのなら、誰もが経験したことのある「気のせい」とは何なのか。人間関係において起こる現象で、科学的な説明を与えられないまま片づけられていることはこれ以外にもあるだろうが、ぼくがここで取り扱いたいのは、以下の問いである:このように曖昧な状況を多く経験する一方で、相手のことを多かれ少なかれ認識できているという前提を設けられる状況があるのは、何故なのか?
この問いを考えることで、木々との関係ではほとんど交わされなかったもの、別の言い方をすれば、その不在によって木々との関係に特異性を付していたものが浮かび上がる。言葉である。現代社会に生きるぼくらが他者と関係を築けるのは、また他者の気持ちや思考を認識できていると思えるのは、言葉を用いているからに他ならない。ただ注意してほしいのだが、ぼくがここで言う「言葉を用いる」とは、言葉を使って話すことや読み書きすることを必ずしも意味しない。それはむしろ、相手のことを自分にとって「認識できる存在」にするために、自身の使用する言語で構築された諸概念を参照する、という行動を指している。したがって、たとえ二者間で(同一の)言語による直接的なコミュニケーションが行われていなかったとしても、双方が相手のことを何らかの概念や知識を介して認識している限り、彼らの関係には言葉が介在していると言えるのである。
言葉を用いずに対象を認識しようとする試みは、それを志向する前にすでに挫かれている。世界の認識と言葉は不可分なほど密接に絡まり合っており、だからこそ、簡単には理解できないものを捉えようとするとき、ぼくを含め多くの人は(と推測するのだが)、手持ちの言葉がそれを分かりやすく言い表してくれることを期待する。さて、冒頭で「言葉という装置を見つめ直したい」と書いたが、ぼくがその契機を見出したのはこの辺りである。といっても、ぼくが惹かれたのは、この側面だけを抽出してそこに問題があるかを問うことではない。より問う意味があるように思えるのは、そこで参照される概念がどのように構築されているのかについて、ぼくらはどの程度自覚的なのかということ、そして、概念の参照を介して相手を認識するとき、ぼくらは実のところ誰を、或いは何を見ているのかということである。
上では敢えて説明を加えなかったが、まず共有しておきたいのは、言葉を基盤とする概念および知識は「構築されるもの」だということだ。それは例えるなら、川辺の大きな石をひっくり返して見つけたダンゴムシよりも、さまざまな色のレゴブロックを組み合わせて作ったミニチュアの家に近い。すなわち、概念や知識の裏側には作り手がいて、それが最終的にどの程度達成されるかは別として、それらは何らかの目的のもとに形作られるということである。
この側面を自覚せずに言葉を使うことは、時として危険を伴う。なぜなら、それは作り手の意図を知らないまま彼/女/らの企みに加担することを意味しかねないからである。たとえば、日本社会に流布する「女」という概念が内包するイメージ(従属的であるとか、無知であるとか)が、生得的なものではなく、社会的に期待され学習されるものであること、また、それが男性優位主義社会で得をする人々にとって都合のいいように構築されていることを知らなければ、そのイメージが事実(fact)を描写していると誤認されているのも手伝って、その概念を基点に特定の人々を認識しようとしたり、彼ら(或いは彼ら自身)に「女」に同化することを求めてしまう可能性は格段に高まる。そして、実際にそうしたことを一人ひとりが行動に移すと、彼らに性差別をしているつもりはなくとも、結果として男性中心主義的な社会構造は補強されてしまう。つまり、「女」という概念の構築に自覚的か否かで、その人の認識における人間の現れ方は変わりうるし、ぼくらがその内で生活を営む社会の在り方も変わるのである。ここから、ぼくらが「現実」と呼ぶものも概念と同様、人より前にあるのではないことが分かる。それは、ぼくらが言葉を使用し合うことによって構築されるのである。
人々はアイデンティティを指すさまざまな概念を参照したり、関係の起点に用いたりしながら、自分自身を含めた「人」のことを理解しようとする。また、それらによってぼくらのコミュニケーションはより容易に、よりスムーズになると想定されている。しかし「女」という言葉の成り立ちを確認したぼくらは、そうした言葉が実際に生きられている生をそのまま反映しているわけではないこと、場合によっては、人間の生との間にかなりのズレが生じていることを知っている。つまり、概念というある種の枠を用いて人を捉えると、その存在からこぼれ落ちてしまうものが少なからずあるのである。では、その「こぼれ落ちるもの」とは一体何なのか?
ここでもぼく自身の経験を少し述べたいと思う。三年前くらいから、ぼくはずっと自分のジェンダーアイデンティティ、およびセクシュアリティを同定できずにいる。マジョリティ(つまり、ヘテロセクシュアルのシスジェンダー)に同化できそうにないことは折にふれて認識させられていたが、かといって、ぼくが抱える感覚を余すところなく記述していると思える概念も見当たらなかった。自分が何者なのか分からない、というのは心許ない状態で、自分の感覚に近いアイデンティティに拠り所を見出そうとした時期もあったが、そこで何よりも意識されたのは、その概念がぼくという存在を決定的に捉え損ねている、という感覚だった。それは日を追うごとに少しずつ堆積し、存在するのかも分からない概念に期待するのに疲れた結果、ぼくはジェンダーアイデンティティやセクシュアリティを表す概念に居場所を設けることを諦めた。しかし、これは図らずも、自分の生に本質的ながら、言葉には落とし込むことのできない何かがあることをぼくに認識させた。そして、ぼくはこう思うのである。世界と関わる上で重要なのは、他者に伝わるように自らを既存の概念で縁取ることではなく、実存にかかるその言葉にならない要素を、自分の身体で生きようとすることなのではないか。
一見すると、言葉を介さずに或る対象を認識することと同様、この試みも始めから挫かれているように映るかもしれない。しかし、これは「生きる」ことのひとつの解釈であり、ある意味でそれと同義なので、生きている限りに於いてそれを完全に放棄すること(実存を捨て、社会的構築物に自らを明け渡してしまうこと)はできない。そして、ぼくはこの試みが、自分を生きることのみならず、他者との関係を生きることにおいても根源的な位置を占めているのではないか、と思うのである。つまり、参照する諸概念の間に相手の像を立ち上がらせるのではなく、相手との間に結ばれる瞬間の連続を確かめながら、一般的な価値観や既知の言葉ではうまく表すことのできない相手の生にふれようとすることで、ぼくらは関係を生きているのではないか。関係が切実さを帯びるのは、したがって、分かりやすい言葉に妥協することを拒み、傷つくかもしれないことを承知した上で、相手のほうに手を伸ばすときである。
世界(或いは人)が泉だとすれば、言葉は穴の空いたバケツのようなものだとぼくは思う。ぼくらは世界に現れるものを理解しようとするとき、そのバケツを使って泉から水を汲み、傍に置いた大きな水槽にそれを注ぐ。ぼくらは水槽に溜まった水を世界そのものだと信じてしまいがちだが、それは泉から辛うじて汲むことのできた水に過ぎないのであり、その上、世界は常に新たに湧く水によって満たされる。つまり、本を読むなどして言葉の精度を高めれば、バケツの穴を塞ぐこともできるだろうが、汲み上げた水が世界そのものを表すことは決してないのである。言葉にすることでこぼれ落ちたものや掬えなかったものを忘れたり、必要ないからと無視してはいないか。理解できそうになかったとしても、ぼくらは時々、その泉に潜ってみる必要があると思う。
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