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ミスコンと大学生の「憧れ」のこと|はじめてのnote

はじめに

机の前に座り、まともに書くnoteとしてはこれが初めてになる。

近年では「大学コンテスト」と形容されることが増え、「「美しさ」を競う」という文脈から切り離されているかのように見える大学「ミスコン」ーーミス・ミスターコンテスト。スポンサーは美容クリニック、脱毛サロン、アパレルに化粧品メーカー。その資金源の偏りから存在意義について、あるいはその存在が及ぼす影響について批判されることも多い。平たく言えば、「美」の規範を強固なものにするからだ。
初めに述べておくが、私は開催自体について賛成の立場も反対の立場も取っていない。今後も取らない予定である。他人事じゃないのに傍観するな、そう言われそうなのはわかってのことである。意見を表明しないこと(≒沈黙すること)が賛成表明になる、その言説すらこの世の中のトレンドに見えてしまうから、今思うこと、否定的なことも肯定的なことも誰かに届く形で書いておきたかっただけ、ただそれだけなのである。
X(旧Twitter)をぼんやりと見る中で、同じ大学生としてふと思ったことを書いてみたい、そんな動機だけで投稿する。

ミスコン批判と形態の変化

批判(もちろん先述したものはごく一部に過ぎない)や大学自体の姿勢の再検討を受け、ミスコンを運営する団体がその開催形態を変更しているケースも少なくない。1年前のNHKニュースでも取り上げられていたが、龍谷大学では男女の壁を払った形式でのコンテストが実施され、九州大学ではミスコン自体が廃止され別形式のコンテストが開催された。また、お茶の水女子大学では容姿ではなく匿名レポートに対する評価が導入されるなど従来の方式を離れた試みが見られた。一方でミスコンが存続されている大学もあるが、これは大学自体が運営している訳ではなく、大学内に存在する任意団体(いわゆるサークル)により運営されているものである。大学自体はその活動を非感知としているか、早稲田大学のように禁止を表明しているか、といったところが主流かと思われる。また、文化祭/学園祭との切り離しも最近の風潮と言えるだろう。学園祭運営母体とミスコン運営母体は無関係であることが多いが、かつてはその結果発表が同学園祭で行われていたことから、学外者にとっては混同しやすいものだった。例えば、東京大学のミスコン運営団体はフィナーレを学園祭の後、別の会場で開催している。

なお、すべての大学で禁止すべきという声もあるが、私としてはそこが「大学ミスコン」だからこそ、最も難しいところであると考えている。大学自体が学生のサークル活動を制限することは許容されるべきなのだろうか。もっとも、制限が行われるべき理由(犯罪行為を連想させるパフォーマンスなど)があれば別だと思うが。
だから、「ミスコンを中止せよ」「大学は学生の権利を侵害するな」の主張は繋がりがあるとは言え、どうしても両立が難しいように思えてしまうのである。もちろんこの2つを同時に掲げるにあたるロジックの存在は承知しているし頷ける部分もある。それでも、理論ではなく実践として「できるのか」は別ではないか、というのが総じて思うことだ。
ミスコン賛成派の「学生の自己表現の機会が失われる」という主張とは異なり、「自己表現の場」としてコンテストを運営しようとする学生の活動を制限できるのか、という話である。

ミスコンに出る理由と憧れ

今後もミスコン運営団体は無くならないと置いたとしても、参加者(ミス・ミスター候補者)がいなければコンテストは存続し得ない。なぜ参加しようと思うのだろうか。
答えとしては、おそらく分類しきることができないだろう。自分の容姿に自信があったのかもしれないし、ミスコンという場を自己表現の場として活用したかったのかもしれない。参加人数が足りなかったから運営母体から声をかけられた知人、という可能性だってもちろんある。
その中でも、私が一番気になる、考えずにはいられないのは「憧れ」としてのミス・ミスターコンテストだ。ソーシャルメディアの普及に伴い、その大学から遠く離れて住む人々もその活動の様子を確認したり、投票したりすることができるようになっている。つまり何を想定しているかというと、かつて憧れの人としてのミスコン参加者に何らかの形でエンパワーメントされ、あるいは自分が憧れになれれば良いという気持ちで自身もミスコンに出たいと思うケースだ。その気持ちは純粋で、きっと否定されるべきではないと信じている。いまやミスコンに出場することによって自身が批判されたり、将来にプラスでない影響が及んだりする可能性を一切考慮に入れていない参加者はいないだろう。そんな中で憧れを追求する気持ちにはきっと曇りはない、そう信じたいだけかもしれないけど。
だから応援しよう、そう言いたい訳ではない。私はそういった純粋な気持ちで応募した人が絶望するような状況には決して生じてほしくないと思っている。ただそれだけだ。

否定でも肯定でもない、思うこと

X(旧Twitter)での候補者のアカウントには溢れんばかりの返信がついている。「応援するコメント」が沢山、沢山ついている。これは別に体感だけで言うのだけど、基本的に毎年同じ人がコメントをしている気がする。断りを入れておくが、これは決して悪いことではない。その人の生活に張りを与えるものなのかもしれないと思う。では、投票する人はどうだろう、友人や親族と、コメントする人、しないけども応援をしている人、内訳は定かではない。投票プラットフォームを提供する企業が分析を参加者に渡しているのでなければブラックボックスと言える。つまり、参加者にとって目に見える「有権者」はコメントをしない人よりもする人である。
だから、特にソーシャルメディアを使って発信しようと思うと、そのターゲットとして意識する(意図があってもなくても)のは「いつもコメントをくれる人」になる。
そのターゲティングと分析による投稿作成は戦術としては有効だと、素人ながらに思う。一貫したコンセプトと自己ブランディングは固定ターゲット(毎日投票してくれる人)を得るためには必要だし、各参加者のフォロワー数だけから判断するならそれはきっと機能している。相手の好みをリサーチしてプレゼントを贈る、日常でも意識せずに行っていることだし、自分だってもらったら嬉しい。それと同じだと思う。
しかし、それは参加動機と100%適切にリンクするのだろうか。これもすることもあるし、しないこともある、としか言えないのだけど、「グランプリを取りたい」の向こう側にある動機と背反することはないのだろうか。
もし背反、矛盾するのなら、きっとそれは辛さに繋がってしまう。何をやってるんだろうって思いながらする投稿や配信はどうなんだろう。何を思っているんだろう、そう思ったら寝れなくなった。

おわりに

何になる訳でもない文章ではあるけれど、私が日々「おすすめ」に流れてくる投稿を眺めながら思っていることを書いてみた。
全部可能性の話とはいえ、考えずにはいられない。色々な人の顔を思い浮かべながら、一人で目を瞑りながら。
他にも色々考えてしまうことはある。ファイナリストたちを選出し、日々の活動を管理する運営母体の方(多くは同じ大学生だろう)は何を基準に選んだんだろう。批判を受けて何を思うんだろう。批判する人たちは最後どんな結末を迎えることを望み、先述したような疑問を超えて願いを実現させる方法をどのように考えているのだろう。

終わらせ方を見失いながら、ここまで書き残して公開することにします。
もし読んでくださった方がいましたら、ありがとうございました。



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