道端の花になりたい(比喩)
こんにちは、スミレです。
今回の記事は結構読みにくいと思います()
このところ記事を書く意欲がなく、noteを覗きに来る頻度も少なくなったと自覚しています。
高校生の時の方が何やかんやいっぱい書き散らして楽しんでいた覚えがあるので、あの時はどうやって記事を書いていたっけと思いまして。
一言でまとめると、私自身のために書く機会が減ったから、だと思っています。
自分の記事を一から読み返すほどの真面目さは私にはないので、以前と今とでどういう風に書き方が変化しているか把握していない状態のまま考え進めていきますね()
当初の目的は高校の授業で学んだり考えたりしたことを書き残していくことだったはず。
それが段々、自分の考えを通して誰かの心に引っかかる文章を、と意識が変化していった気がします。
間で、自分のことをもっと理解したい、という思いから自分用のメモ書きみたいなことになっていました。まあそれも、最終的には読み手への投げかけを含むよう私なりに工夫していたつもりですが。
例えば今書いているこの記事ですけれど、最近の私は「このタイミングでこのワード使った方が読みやすいかな」とか「もっと自然に話題の切り替えをした方がいいかな」とか、読み手ファーストで書いていた気がするんです。いや、記事って本来それが大正解だとは思いますが。
対してnoteに不慣れだった頃の私は「とりあえず書けるだけ書き切ってしまおう、どうせ自分が上手く書けるなんて思っちゃいないし」くらいの気楽さで、特に意識するものはありませんでした。
ええと、つまり、前は頭にあること全部を無差別に書き出していたけれど、段々と目に見えない誰かにとって価値ある情報だけ書き出そうとするようになった、という訳です。
noteに慣れてきたから、他のnoterさんたちみたいに、最初から最後まで誰かのための文章、っていうのをやってみたくなったんだと思います。
そういう文章に救われてきたから、自分もそれをやる側に立ちたくなった、みたいな。
一つ問題なのは、「誰かにとって価値ある何か」を自分の中から見出す能力がまるでないことです。
そもそも私の性質として、何か目的を持って行動するとプレッシャーを感じ始めて勝手にしんどくなる、というものがありまして。
代わりに、気まぐれに、ただ自分のためにゆるりと行動することならとても楽しめるんです。
単位のため卒業のために登校せねば、ではなく、楽しい授業の時間を取りこぼしたくない、の精神で学校生活を送っている現状がまさにそう。
何というか、自分軸で動きたい私を満たすために他人軸を使ってる、みたいな?書いてて自分でもピンと来ていないのですが。
相手からの合格点をもらおうとすると、「こんなんじゃ足りん」と相手じゃなく自分で勝手に判断する癖があるので、自己満足で突き進むしか心労を減らす方法がないんですね。で、最近の私はその方法をド忘れしてたと。
以前の書き方は、まず頭の中をそのまま言語化していって、書いているうちに「あれ、こういう風に記事を締めたら、誰かに何かを与えられる感じになるのでは?」というアイデアが落ちてくるまで待つスタイルでした
最初から完成品を出すのは苦手だけれど、散らかったアイデアをいい感じに整理整頓するのは割と得意だと思っています。
これからもnoteで活動していたい私がするべきことは、アイデアを散らかすことでしょう。外見気にせず、私の中でボンヤリ存在しているアレコレを言語化という手段で固形にしていくことでしょう。
書き散らしのリハビリ(仮)の第一弾がこの記事になります。
これ投稿するのか、なんか勇気いるな。最初から最後まで私だけのためっていう文章を書くのが久しぶりだから。
でも楽しいです。さっきまでかなり気持ちが落ち込んで指一本動かすのも一苦労といった有様でしたが、今は音楽に合わせて体を揺らせるし何となく楽しい心地になっています。
近い未来の私へ。このアカウントは終始自分のためだけに使うといいよ。
道端のスミレの花も、人間のために咲いた訳じゃないだろうけど、咲いていることに気づいた人間がとんでもなく感動することってあるじゃない。
そういう存在になりたいなら、無理して誰かのために咲かなくてもいいの。
道端の花を目指そうや。そうしていた時の方が楽しかったからね。
私は今思い出したとこだよ '`,、('∀`) '`,、