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意味のないこと

『からむしのこえ』という映画を見た。
昭和村でからむしという植物を畑で育て、
糸を取り出し
布を織る、代々続いてきた営み。
いま、絶えようとしているその寸前を
守る人たちの姿が
淡々と映し出されていた。

それはとても美しくて切実だった。

からむし文化を守りたいと思ったけど
昭和村に私はきっと移住しないだろうし
織姫にもならないだろうとも思った。
実際にそこに住んでその文化を守ろうと
活動している方々の
透明な情熱に触れて
私は自分を呪いたくなった。
命を無駄にしているような生き方を
している気がして。

この産業を次世代につなげていくには、
からむしが原料になっている
小千谷縮や越後上布を買い、着る人が
存在する必要がある。
その価値を普及し、
その価値に見合う対価を惜しまない人が必要で、
経済の循環のなかにもっと入ることが
大事なのだろうと思った。
生活ができなければ。

もうすでに行われていることを
どう強化し、必要としている、興味があるけど
まだ知らない人たちにどう届けていったらいいのか・・・。

この展示や映画を見て、
実際に足を運び、やってみたい、という人が
一人でも増えてほしい。
日本人の宝の伝統文化を絶やさないために。

おこがましいけど帰ってからも
しばらく考えていた。

夜中にリビングで寝落ちしていた。
変な夢で目覚めて
寒さに震えたとき、
経済の循環の中に入ることを第一に思うと
大切なものがとりこぼれてしまうと
いう気持ちがわいてきた。

カラムシはカラムシとして存在していて
カラムシ織はカラムシ織として
関わる人たちにとって
とても大事な命そのものなのだ。
経済の循環とか
着物としての価値とか、
「お金」という「結果」ありきではないんだ。
もちろんこの社会全体が経済で回っているからには
そうなのだけど
それでは語れない本物の営みを感じた。

同時に外のものは内のものと同じであり
私は私自身を
「結果」や「経済」「意味」のなかに
閉じ込めようとしていることにはっとした。

ずっと揺らいできた。
揺らぐのは外から見てはわからなくても
本人としては苦しい。
この私の揺らぎや苦悶がAIにはきっと理解できない。
その価値を定められない空間に
私が「生きる」という「意味」があると
感じた。

だからこうして
数年前にやめた
意味のよくわからない文章を書くことを
再開することにした。



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