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はじめに

世界共通の夢

 昔々、エジソンやリュミエール兄弟などよりもずっと前、バビロンやエジプトンの古代神殿の奥底で、光をあやつり、幻を見せる魔術が誕生しました。しかし、あるものを消し、ないものを現し、人々を惑わせ、政治を歪ませるこのまやかしの技巧は、ペテン師たちのイカサマ術として忌み嫌われ、それこそ影の世界に押しやられてしまいます。それでも、ファウスト博士にかぎらず、ハムレットやスクルージなど、現実の重圧に埋もれてかかっている人間が、夢や幻から真実を学ぶことも多いでしょう。もちろん、それは楽しいものばかりでなく、恐ろしいもの、悲しいものもあるかもしれません。いずれにせよ、その現実ではないものが、この現実を見直すための鏡ともなり、みずから知恵と勇気を生み出すきっかけを与えてくれます。

 そして、映画らしい映画ができてもう百年、いまやそれは世界中で熱愛され、文化として認知されています。それどころか、映画は、かつての石炭や石油、自動車や電気製品などを追い抜き、年間数千本もが国際市場で取引される巨大ビジネスへと成長しました。ところがこうなると、人々に夢と幻を見せるはずの悪魔の方が、このビジネスとしての現実の重圧で息切れぎみです。かつては簡単なトリックでも驚いてくれた観客が、もはや並みのことでは喜びません。あ、それ見た、とか、あ、それ知っている、とか、退屈げに言うだけならまだしも、ああ、それはね、などと、つまらぬ楽屋裏の事情まで訳知り顔で言いふらし、周囲の興を冷ます連中まで出てきます。

 とはいえ、突飛で奇妙な技巧ばかりが目立って、話がさっぱりわからない、というのでは、それこそ話になりません。そもそも元の話がひとりよがりの支離滅裂では、観客に失望しか与えません。あの人の作った話ならぜひ見たい、とみんなが言ってくれてこその映画です。それも、観客は、映画が見たいのではなく、物語が楽しみたいのです。

 映画は世界共通の言葉です。どこの国の物語でも、光と影の魔術師が良い映画に仕立てれば、世界中の人々を魅了し、楽しませることとができます。私たちは映画を通じて、世界のさまざまな暮らし方を学び、人々のいろいろな感じ方を思うことができます。各地の確執の歴史を知り、共通の希望の未来を考えることができます。それは、老いも若きもなく、男も女もなく、肌の色も教養の有無も関係なく、いっしょに話題にできる普遍的な基盤を提供してくれます。

 その創生期は、まるで子供が言葉を覚えるときように、それどころか、サルが初めて言葉というものを生み出して話し始めたときのように、叫ばずにはいられない心の底の強い思いを声にしただけの無意味な映像表現を、それぞれ手探りで重ねてきました。ようやく映画の基本的な文法や技術が整理されてきた今日でも、映画の企画を立ててから最初の観客の歓声を聞くまでは、どんなヴェテランのプロデューサーも、脚本家も、監督も、どうやって人々を魅了するか、工夫と苦労で七転八倒の苦しみを味わうでしょう。

 ああ、あの人の作った話ならぜひ見たい。そう世界中から言われるにはどうしたらよいのでしょうか。夢、幻にすぎないことさえも忘れて、観客が物語の中に目も心も吸い込まれていくような魅力的な魔法の映画の語り口とはどのようなものなのでしょうか。かつてアカデミー賞に輝いた名作の数々ように、時代を超えて人々に愛される優れたエンターテイメント映画の秘密は何なのでしょうか。

グリフィス・スタイル

 この本は、エンターテイメント映画を作るための、つまり、映画製作のプロになるための手引きです。だから、エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』(25)くらいは当然に知っていることを前提としています。ああ、デ・パルマが『アンタッチャブル』(87)で階段落ちのモンタージュをパクったやつね、というそこのあなた。あなたは両方をよく見比べてみましたか。

 エイゼンシュテイン(1889~1948)がモンタージュを発明したかのように書いてある本は、まちがいです。それよりずっと以前に、グリフィス(1875~1948)が『イントレランス』(16)その他ですでに多用しています。そして、「エイゼンシュタテイン・スタイル」と「グリフィス・スタイル」では、モンタージュの原理が決定的に異なっており、デ・パルマは、同じシーンをあえてハリウッド風のグリフィス・スタイルで撮って、その違いを強調しています。

 すなわち、それは、絵に写らない部分まで、すべての俳優たちに何度も実際に演技させ、それをさまざまなポジションから撮影しておいて、これらのカットを後で自由に選択して編集していくかなり贅沢な手法です。ベビーカーのルックダウン(見下ろし)ショットに、階段を下りてくる人々の陰だけが写り込んでいたり、階段落ちのラテラル(横引)ショットに、主演スターのケヴィン・コスナーの拳銃を持つ手の陰だけが見切れていたり、などというようなことは、エイゼンシュタイン・モンタージュではありえないことです。

 つまり、グリフィス・スタイルの特徴は、すべての俳優たちに実際に演技させ、これをマスターカメラだけでなく、複数のサブカメラでも同一シーンを同時並行撮影する「マルチカヴァレッジ(multi-coverage)」であり、そのモンタージュの基本は、マスターカットへのサブショットのインサートです。これに対して、エイゼンシュテインは、ばらばらの絵を心象的に並べたアルバム風モンタージュです。日本は、演劇映画界にソ連マルクス主義が流れ込み、とくに戦後はエイゼンシュテインのイデオロギー的映画製作理論が席巻してしまいましたが、しかし、黒澤は、あえてロケを実写するグリフィス・スタイルを採用し、これを大きく発展させ、現代のハリウッド、そして世界のエンターテイメント映画の見せ方に強い影響を与えました。

 エイゼンシュテインは、マルクスの弁証法に従って、ばらばらの心象的映像をつなぐモンタージュが革命的な創造を果たすかのように主張しています。しかし、この理論は、じつはトーキー、そして、そのステレオ化によってすぐに行き詰まってしまいます。というのも、エイゼンシュテイン・スタイルは、マスター・ポジションに依拠するリアルな「聴野(acoustic field)」のサウンドトラックを原理的に持っていなかったからです。もちろん、すでにあるサウンドトラックに映像を乗せるミュージックビデオなどでは、これでいいでしょう。しかし、映像の中に自己定位が無ければ、臨場感に欠けます。

 今日、CGが劇的に発達し、デジタルな加工合成技術が高度化して、莫大な予算を投じてもできないような映像も創造できるようになった一方、予算の都合もあって、巨大な屋外セットで大人数のエキストラたちとともに実際に俳優たちが汗を飛び散らし、馬で駆け抜け、怒号を叫び交わす、それを何台ものカメラで同時に追うなどというグリフィス・黒沢時代のような生の撮影は、めっきり少なくなりました。しかし、たとえ人工的な映像を使うにしても、その編集の原則は、あくまでグリフィス・スタイルです。

 つまり、人工的な映像を作るにしても、あらかじめ実際的な空間を隅々まできっちりと仮想し、その中にキャラクターたちの立ち位置や距離関係を整理したうえで、アクションのコレオグラフィー(choreography、フリつけ)を割り付け、これに合わせて、映像を起こしていきます。このグリフィス・スタイルの編集原則があればこそ、その映像を見ている観客は、その「場」に生で立ち会っているような臨場感に没入できます。つまり、映画は、直接に見えている映像ではなく、それらの映像によって総合的に味わう体験にこそ意味があります。

 エイゼンシュタインとグリフィスのモンタージュ理論の相違は、たんに映画の問題に止まらず、じつはその根底にある哲学の問題にまで行き着きます。マルクスは「弁証法(dialectic)」を、革命的で創発的なもの、つまり、いずれの部分でもないまったく新たな全体を画期的に生み出すもの、と考えましたが、これは哲学の歴史の上でもかなり異端です。そもそも弁証法を言い出したのは古代ギリシアのプラトンであり、それは、偉大な真実そのものに迫るために、それが私たちの現実の生活に投げかけるさまざまな影の事実を一つ一つたんねんに拾い集め、まずすべて語り出してみよう、というものでした。

 このプラトンの弁証法は、旧ソ連はともかく、欧米の知識人にとっては教養の常識であり、まさに影を撮って集める映画において、これこそが根本の哲学となっています。つまり、映画を作る、と言っても、人間が好き勝手にどんな話でも作れる、などというわけでなく、その核心にはいまだ誰もそのものを直に手でつかんだことがないような永遠の真実があり、たとえ仮説的なフィクションであっても、映画はそのさまざまな影からその核心の真実へ迫る挑戦的で探求的なものであればこそ、その影の向こうにかいま見える真実のまばゆい輝きによって観客を心の底から感動させることができる、というわけです。

宝石を磨く

 エイゼンシュテインらの古いモンタージュ理論の致命的な誤りは、映像を音声や文字と同様の即物的な表現パーツと見なし、これらから構成される映画を機械的に分節構造でとらえようとしていたことによります。たしかに言葉は、まずひとつひとつの意味を指し示した後に、これを文としてつなぎます。しかし、映画は、ひとつひとつの被写体を見せて、これをモンタージュでつないで作るべきものではなく、むしろまさにエイゼンシュテインが漢字に注目していたように、1ショット、1カットで、複数の物事の間の関係そのものを一目瞭然で直観的に見せてしまうことにこそ、その比類なき特徴がありました。

 この関係直観主義は、グリフィス・スタイルのワイド・アスペクト、マルチカヴァレッジ、ダイナミック・テイクの発達によって、技術的に磨かれてきました。ここにおいては、ただ映像という表現パーツを組み上げて作品を創るのではなく、まず最初に語りつくせない複雑なテーマやドラマ(ミュトス)があって、それを客席に座って画面を見ているだけの観客にどうやってわかりやすく、おもしろく、エピソードやシーン、カットやショットに分解し展開して見せていくか、「エロキューション(elocution、語り口)」として工夫することが求められます。それは、丸い地球を平らな地図に開き、これを旅行記として道順を追って説明していくような難しい課題です。

 なんにせよ、最初にあるべきは、テーマそのものであり、ドラマの全体像です。技巧ばかりを駆使して映像をツギハギに編集しても、そんな空のキャラメル箱では、感動はおろか、腹の足しにもなりません。むしろ、謙虚に日常の現実に目を向け、そこら中に埋もれている、ぎっしりと中身の詰まったテーマやドラマの原石を掘り出し、その核心の真実がすけて見えるほど透明になるように丹念に磨き上げていくことこそが大切です。

 そして、この本は、このようにテーマやドラマを掘り出して磨き上げ、映像化するために必要な基本的な理論と技術を、ていねいに整理して説明していきます。一歩進んで作品を深く考えてみたい映画ファンの方々、仕事として厳格に作品を査定して提供しなければならない製作配給会社や映画館、評論家の方々、これから世界に通用する良い映画を作ろうとしている学生や新人の方々はもちろん、すでに多くの実績を積んだ現場のヴェテランの方々もまた、自己流で慢心してしまうことなく、初心に戻って基本をチェックし直すため、このエンターテイメント映画の教科書に、ぜひ一度、目を通してみていただければ、と思います。


続きは……

エンターテイメント映画の文法(改訂版)アカデミック版: 企画からシナリオ・カメラワーク・編集まで:映画製作のための実践マニュアル | 純丘 曜彰 |本 | 通販 | Amazon


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