「屈辱の深さ」に育つ優しさ。
優しさとは、許容値の大きさ
僕は人の優しさ、つまり誰かを許す許容値の大きさというものは、人生において味わってきた「屈辱の深さ」によって決まると思っている。
(あまりこういう人生における方程式めいたものを語るのは好きではないが、個人的にずっと考えてきた思いなのでせっかくの長期休暇ということで言語化させていただきたい。)
芸人を志して失敗した自分の話
僕は大学卒業後にお笑い芸人を志し、高校の同級生とともに「天下獲ったるで!」と滋賀の片田舎から体一つで上京した。
あえなくその夢はすぐ破れるのだが(理由を端的に言うと自分の才能のなさを思い知ったからです)、その時に味わった「屈辱の深さ」は正直今まで味わったもののない痛烈なものだった。
客観的に振り返れば、ただの田舎の全能感あふれる若者の、よくある勘違いストーリーでしかない。
ただ当時の社会のレールから外れたことのなかった自分からすると、本当にとてつもなく重い屈辱を嫌というほど味わった。
滋賀で僕たちは世界一だった
滋賀で相方と深夜のファミレスでネタ合わせをしている時、仲間内で話している時、「自分たちが世界で一番面白い」と本気で思っていた。
世界の中心は自分たちだ、と思い込んでいた。
いや、今思うと自分すらそれを信じ切れていなかったのかもしれない。
だからこそ、自分が芸人でやっていけないと気付いた時に「やっぱり俺は何物でもなかったんだ」と薄々気付いていた化けの皮が剥がれた気持ちになったんだと思う。
(頭がクラクラするほど最高の小説です。是非に)
日に日に苦しくなる芸人生活
「明日のネタ見せでどれだけ講師に怒られるのだろう」
「来週末のライブ、またスベるだろうな」
芸人生活後半は、夜寝る前にネガティブな言葉が浮かばなかったことはない。まさしく真綿で首を絞められるような毎日だった。
その辛さこそが、優しさを育ててくれた
僕は人に対して、許容値が大きい方だと思う。
ほとんど怒ったりしないし、強い言葉を使うこともない。
(まぁ別に誇るほどのことではないのだが)
それはこの芸人時代の「屈辱の深さ」が、人に対する寛容な気持ちを育ててくれたんだと思う。
不完全だからこそ人が好きだ。
怒りは、期待を裏切られたという気持ちから生まれる。
期待していないものに対して、人は怒ったりしない。その人に期待しているからこそ腹が立つし、気持ちがかき乱されるのだ。
僕は自分に対して全く期待していない。
芸人もまともに続けられなかった弱い自分なんだから、他の人の弱い部分や失敗に対して「期待を裏切られた」という気持ちが一切わかない。
不完全な部分に強く共感するし、そういうものだと思う。
人生に無駄な時間なんてない
長くなったけど言いたかったのは、人生にやっぱり無駄なことなんて一個もない。自分に言い聞かせるようだけど、僕はそう思う。
芸人を失敗したからこそ寄り添える気持ちがあるし、僕にしか出来ない何かがあると信じている。
だから今しんどい人や大変な人でも、「この経験が誰かを救えるかもしれない」と考えられるようになれば、これ以上嬉しいことはありません。
つらつらと長くなりましたがここらへんで。
◎余談
「屈辱の深さ」という表現は「将棋の子(大崎善生)」という奨励会で挫折する子たちにスポットを当てたノンフィクションで見た気がするんですよね。今回バーッと読み直してこの表現探したんですが、見当たらなかった。。他の本かな。。この本マジで名作なので是非。
◎余談の余談
確か奨励会を中退して十年近く音信不通になっていた少年から「連絡とらず不義理しました、やっと公認会計士になれました」と記者に連絡が来て、「将棋を諦めた彼の10年間の屈辱の深さを考えると、僕たちは安い酒で誤魔化すしかできなかった」的な表現だった気がします。
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