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ポジティブ思考も幸運のうち。
離婚後まもない婚活で、とある父子家庭のお父さんと出会った。
実は亡くなった奥さんは、お兄さんから性的虐待を受けていて、生まれてくる子どもが男の子と分かるなり、気がおかしくなりはじめ、実際に男の子が産まれると、とうとう自殺をはかってしまったという。
小さい頃に性被害を受けた私も、わからないでもない。
自分の子どもが男の子だったったら、どうすれば良いのかわからなかった。
私は、生まれてくる子が女の子でありますようにと心から願った。
男の子だったったら、おろしてもいいとさえおもっていた気もするし、誰かに子育てを託したかもしれないとさえ本当におもう。育てる自信がまったくなかった。怖かった。
さいわい、私が授かった子は女の子だった。私はもう二度とと妊娠しまいと、娘を出産後にすぐ避妊リングをにいれた。
生まれてくる子の性別は選べない。
結果、子どもの命と引きかえに自分の命を捨ててしまったそのお母さんのことを思うと、やりきれない。
選べない性別と選べる命の狭間で、お母さんはいかに苦しんだのか。
PTSDは、いわば不運でできている。
偶然身に降りかかった事故、災害、この苦しみがあってなければ味わっていなかったこと。
このお母さんは、家庭環境の不運、子どもの出生の性別の不運、不運の上に不運が重なった。
不運は自分の選択権なくおそってくる。
この不運のことをずっと考えていて、サイコロの目がつぎはなにが出るかを書こうとするようなもので、結局うまくまとめられなかった。
リア充と呼ばれている人は、努力もあるかもしれないけれど、やっぱり幸運な人たちなんじゃないかなと思う。
ポジティブ思考になるのもある意味、幸運のうちで、PTSDになってしまえばどうしてもネガティブ思考にならざるを得なくなる。
人がしあわせに生きていく上で一番大切なのは、学歴や経済力よりも、私はポジティブさだと感じていて、それがPTSDにより欠けてしまうのは大きな損失だとおもう。
本人が生きるのに苦しんでいるのは、ネガティブ思考のせいではないかと考えるとき、それは本人自身によるものだろうか。何かがその本人の立ち直ろうとする力さえも潰してしまったのではないだろうか。
自分が兄から性的虐待を受けていて、息子を育てることになったときに、自分はこれからポジティブに生きていけるのか。
上手く生きられないのを、ネガティブ思考のせいだと言いそうになったとき、それはただ単に自分の幸運を振りかざしているだけではないだろうかと、いったん立ち止まって考えてみたい。