『チョコレートコスモス』の感想、の自己分析
恩田陸さんの『チョコレートコスモス』を読んだ。
内容についての事前知識は「芝居、女優、オーディションもの」くらい。
お芝居はドラマや映画で目にはするが、あくまで物語の登場人物としての見方がメインで、「お芝居をする役者」という視点はあまりなかった。だから、どちらかというと「知らない世界」をテーマにした500ページ超の作品に、期待よりも不安が大きかったのだが、さすがは恩田陸さん、序盤から引き込まれて一気に読んでしまった。
この作品はすごい。読み始めて感じたそれは、「なぜこんなに引き込まれるのか分からない」からこその、ある種の畏れであった。
引き込まれる理由が分からないと感じるなら、これまでにのめり込んだ作品についてはその理由を言葉で理解しているのかというと、そんなことはない。でも言語以下のレベルで、私は『チョコレートコスモス』に何らかの違いを感じたようだ。
この分からなさを分析して、言葉にしてみたい。
(念の為、以下では内容について大きなネタバレはないと思うが、主に物語の組み立て?に関して勝手な考察を繰り広げている)
本作を読んでいて、先が見通せない感じ、全体像のうち今はどこにいるのかが見えない感覚があったように思う。これは、私が過去に読んできた小説との差異なのだろう。
逆に、物語の大枠と現在地がなんとなく掴めていることは、長編小説を読むときの安心感につながるのではないだろうか。
例えば、構成がわかりやすい物語。交互に2人の登場人物の視点で語られたり、年月の流れが明確であったりすると、物語の骨格に安定感がある。
また、ゴールがはっきりしている物語。例えばミステリーなら、大抵は「事件(謎)の解決」がゴールにあり、少しずつ真実に向かって歩みを進めている感覚がある。スポーツの大会など、何かの集大成に向かっていく話や、何かのイベントが終わるまでを描く話も、ゴールと現在地の距離が測りやすい。
こういう大枠が見えることは、話の展開の意外性や新鮮さを損うものではない。むしろ、この土台への安心感があるからこそ、ストーリーの自由度が高まったり、予測不可能な展開への興奮が際立ったりするのではないか。
一方、この作品について。
まず構成に関しては、複数の登場人物に代わる代わる焦点を当てながら物語が進む。ただ、その順番やそれぞれの長さは予測不能で、安心安定をもたらす枠組みとしては機能していないように私は感じた。恩田さんに手綱を握られっぱなしで、次はどこに連れて行かれるのか分からない、期待とともに不安やスリルを味わっていた。
とは言ってもこの作品は「オーディションもの」なのだから、ゴール=オーディションは大体予想がつくはずだ。確かにその通りなのだが、このオーディションまでの過程は、私にははっきり見通せたものではなかった。
いつ始まるのだろうか?誰が出場するのか?
というか、本当にオーディションに繋がるのよね…?
こんな風に感じるのは、一つ一つの場面が濃密で、面白くて、オーディションというゴールがなくても成り立ちそうなくらい読み応えがあるからだ。
役者らは演出家からの無理難題にどう応えるのか、芝居の才能溢れる少女はどんな発想と演技を見せてくれるのか、気になって楽しみで、ページを捲らずにはいられない。短いシーンの中にも、続きを読ませるアクセルが散りばめられていた。
後から振り返ると、話はオーディションに向けて着実にステップを踏んでいて、出演者や関係者らの世界が編まれて繋がって、ものすごく美しく展開している。しかし本作のディティールの凝り抜かれ方は、オーディションに向かう道筋であることを忘れてしまうほどなのだ。各場面が、文脈やゴールに依存せず単独で面白いから、別の道に踏み込んだかと錯覚してしまう。
さて、主観だらけ好き放題な考察を経て、「なぜこんなに引き込まれるのか分からない」の感情に対して、一応の答えが得られた。
まず「引き込まれる」理由は、ディティールが作り込まれていて、一つ一つの場面が面白すぎるからだ。引き込まれる理由が「分からな」かったのは、私は普段、構成やゴールを手がかりに物語全体を俯瞰する視点から「続きが気になる」感覚を得ているのに、本作は各場面が自立しているからこそ全体像がつかみづらく、その場その時でされるがままに物語を体験していたからだ。
最後に、断るまでもないが、この考察はものすごく個人的な行為である。私が過去に読んだ限られた作品で構成される「物語」の概念、私の感性や読み方に基づいた、私が楽しいだけの遊戯だ。
作品の評価を目指したものではなく、私が楽しく思考し、自分を知る材料として、恐れ多くも『チョコレートコスモス』を使わせてもらった。
恩田さん作品はまだ10作品ほどしか読んでいないが、『三月は深き紅の淵を』に並ぶお気に入り作品に出会えたことに、感謝。