【レポ】2019/0807-8_劇団SCOT『世界の果てからこんにちは』前編【シアターオリンピック】
※この文章はちょっと長いです。ですが、最終的な結論は「来年も利賀に観に行きた〜い」ですので、深く読もうとしなくても結構です。
2019年9月7日。利賀村に行った。
目的はそう、鈴木忠志氏主催の劇団SCOTの劇を見にいくため。
その中でも利賀でしか観られない花火劇『世界の果てからこんにちは』を観にいくため。
毎年富山県は南砺市にある利賀村で開催されている『SCOTサマー・シーズン』。それが今年はロシアと同時開催の『第9回シアター・オリンピック』にて公演するということで、寄付制の観劇料から定額2000円となり、私初心者としてはお金を出しやすく行きやすくなったので、機を逃さず観にいくことにしました。
ぐにゃぐにゃの山道をバスで揺られながら1時間。
利賀村の富山県利賀芸術公園に着く。
グルメ館にてビーフカレーと岩魚と具沢山味噌汁を、日本酒・曙とTOGA天空ウイスキー(このイベント限定若鶴製造のお酒。芳醇すぎるミズナラの香りで体の内も外も森になった美味)とで合わせながら、急ぎ足で夜に落ちる利賀村の雰囲気やお客さんたちの浮き足立った空気に溶け込んでみる。時間つぶしと観劇に向けた心鳴らしに最適。
開演1時間前になった。会場のアナウンスと同時にバス出発のアナウンス。グルメ館から目的の野外劇場へと向かう……。
完全に山奥の田舎の夜。
真っ暗。森の闇
なんだけど公園の中に入ると600人越えの人の群が並ぶ。不思議だ。
立山連峰足元の山奥闇の中、ただ一点だけ整備され明るく騒がしい状態。はっきり言って、あまりに浮世離れしている。怪しい。宗教儀式をしに来ているみたい。
いや、奇跡を見に来るのだからこれは儀式といっていいのかもな。
スタッフの人が常時整列の声がけをしているものの、それとは別にちゃんと観客同士で声がけして自分お番号を確認して並んでいる光景が印象的だった。多分それはなんども来ている慣れた人たちで、キチンと番号順に並ぶことをわかっていたのだろう。
こういう場所でお客さん同士で小さな交流が生まれるのも面白かった。完全他人とファンとして喋る行為は最近慣れたかなと思ったけど、全然、落ち着かなかった。すごいドキドキしてた。多分お酒と山の所為。
で、野外劇場に入るんですが。
階段の通路もすべて座席として座ることで600人はなんとかギチギチに座れてしまった。甲子園を思い出す。のちに古代ギリシャのオリンポスの形を模しているのだと知り、紀元前の人と同じ見方で劇を見れていたことに、未だワクワクが止まらない。
さて、照明が消え、劇が開演したことを知らせる。
屋外なのに思った以上に暗くなりドキドキが止まらない。
待ちに待った花火劇。一体どんな世界なのか……。
……と書いたものの、ここから先は劇をライブ実況していては記事が永遠に終わらないし大変なので、かいつまんで感想を書きます。
◎『世界の果てからこんにちは(果てこん)』は、荒く紹介すれば、第二次世界大戦後すぐの日本、そこで暮らすある男が<日本>は負けていないことをあきらめきれず叫び続けるお話。親子で来ている方もおられたがテーマは子供向けとはとても言えないぐらいとても深く、僕らが永遠戦っていかないといけないような重いテーマ。しかし、だ。この作品は全く暗くない。むしろ楽しい。花火がどデカく上がるわ、昔懐かしの歌謡曲が流れて手拍子が入るわ、観客も笑顔なことが多く、スマホで写真撮りまくるし、笑いも起こる(日本人のおじさまおばさまがほとんどだったが)。完全に、これはエンターテインメントだった。ディズニーランドのショーとなんら変わりない。
◎車椅子。事前に車椅子が鈴木忠志氏劇のアイコンであると知っていたので、この舞台でも見られるのかなと期待していたのだが、もうがっつり主役級に出ずっぱり。それも、エレクトリカルパレード張りの演出として。あそこまで滑らかに動けるのか。対談記事(※1)にて「不健康の象徴」として語られていた車椅子だが、あまりに生き生きしていて、思わず小さく笑ってしまった。ほかの観客も鮮やかな車椅子隊列に歓声を上げる。意味の重さと実際のコミカルさとのギャップに脳が混乱して仕方がなかった。
◎「世界でもここでしか観られない」という触れ込みで謳う花火劇『果てこん』。この花火、最初は、男の中の心象表現程度のものなのかと思っていたが、途中、森の中で燃えるように弾けたり、漂う煙、ひゅるるるという音を見ていくうちに「あ、これ戦争表現なのか」と気づき、瞬間背筋がゾッとしてしまった。確信したのは、古ぼけた音で再生される女性の声と合わさってみたとき、それは僕がこれまで見てきた戦中資料の映像資料を見た感覚と酷似していた。これは語弊のある言い方かもしれないが(しかし実際の体験として)、ディスプレイを介さないで見る疑似戦争表現は、あまりにも奇麗すぎた。花火そのものも、本来、慰霊の意味を込めて夏にあげられるものだ。これも鈴木忠志氏による慰霊表現なのかもしれないと思うと、花火一つにあまりに多くの情報が詰め込まれている。
◎この舞台で一番感動したところがある。途中、赤い縞模様のながーい振袖を着た女性たちが左右から舞台を横切っていくシーンがある。その演出が何を意味するのかわたしはまだかみ砕けていないのだが、それと同時に後ろの池の上をミサイルのように花火が右に左に行ったり来たり発射されるのだが、これがわたしにとってあまりにも衝撃的で、思わず涙が出かけてしまうくらい魅入った。花火を横に打って兵器として表現することにも驚いたし、人の動きと花火動きが交錯的で、美しく、そしてあまりにもアグレッシブだった。
◎そして花火。もう花火。クライマックスの花火。もうこの作品のためだけに作られたとしか思えない舞台装置。刀。男。花火。僧侶。池。山。花火。煙。椅子。車椅子。男。刀。「日本がお亡くなりになりました」。「日本もいつかは死なねばならなかった」。「つかの間の灯! 人生は歩き回る影法師」。嗚呼、嗚呼、台詞から立ち姿から背景まで、動いているもの動いていないもの、なにからなにまで非日常すぎ……。圧倒的な舞台は小川順子の『夜の訪問者』で軽やかに終わった……。”きっときっと 又来てね”……。
終劇。
終わると、終わったように思えない。
演劇を見るといつもこの感覚に襲われる。漫画よりも映画よりもずっと強い現実との地続き感。どれだけ「異常」なことが起こっていたとしても、それはやはりわたしが生きている同じ世界での出来事で、奇跡は存在することを嫌でも痛感させられる。
この作品を何と例えよう、とか考えていたけど、なんにもまとまらなかった。例えれない。情報量の多さで頭がパンクしている。酒のせいかもしれないが。
だが、わたしの混乱はここからさらに拗れる。
終わってから鈴木忠志氏本人(80歳)が舞台に現れ、軽い挨拶、南砺市長方々協賛者へのお礼の言葉を述べた後、何をしたか。
え?
酒樽が運ばれてきて?
杵を持って?
え???
たたく!
え????
えええええええ~~……!
鏡開き、日本酒振る舞いが始まってしまった。
お客さんがワラワラと席を降りて日本酒を貰いに集まる。みんな紙コップを持っているけど一体いつの間に……なんて思っていたが、入場する際に渡されたパンフレット類の袋の中になんと紙コップが入っているではないか、素晴らしい。
きっとこれ目当てで来とられるお客さんもおるんだろうなぁと思いながら、わたしもスタッフさんから日本酒の<若鶴>をいただく。
西欧人らしい方々が鈴木氏とあいさつしていた。市長さんが観客である市民と談話していた。ほかのお客さんたちにも久々の仲間との交流を楽しんでいる人が多く見られた。
……。
なんだこれは。
舞台の打ち上げを、劇団関係者だけでするならわかる。
でも今ここで行われているのは、観客すら引き込んで劇団と一体となって劇の余韻を楽しもうとするパーティだ。
それがこのオリンポス型劇場で行われている。気分としてわたしらはさながら古代ギリシャ人だ。このパーティもまるで市民集会だ。上下の関係を一旦フラットにした開かれた談話。わたしらは古代と一緒に今日を楽しんでいるといえた。舞台から観客席を眺めるようにして人の群れを見ると「舞台に落ちている感覚」があり、異質で、自分らが異質の中に帆織り込まれた気分で、一層古代歴史と綯い交ぜな宇宙的気分になる。酒のせいかもしれないが。
しばらくダラダラ飲んで眺めてから、野外劇場を後にした。そろそろ宿に向かう連絡バスが来ているはずだと、アルコールでゆらゆらした思考で検討をつける。出口のグッズ屋台で台本を購入。後でわかりづらかった台詞を確認するためである。
会場から連絡バスのいる駐車場までは200mくらい離れていたのでさらさら流れる川を横目にふらふら歩いていく。どうにも劇に詳しそうな人が目の前を歩いており、リア王がうんたらかんたらと喋っている。リア王、今回は見れなかったけどいつか観れるといいなぁ……。
(なお、このあとリア王が数年に一度の頻度でしか上演していないことを知り後悔に包まれる。キャンセル待ちしてでも行けばよかった……)
宿につく。
周りに光が何もなく、山と空との境目すらわからず、お宿とイワナのいけすしかわからず、「これは完全に閉じ込められましたね……」と此処に来て実感する。
本来テントを借りるつもりだったが生憎いっぱいだとのことで、急遽大部屋のお宿をとったのだった。初めて一人でテント泊まりできるからワクワクしていたので、この事態に僕は若干不満を持っていた。相部屋の方と軽くお話をして、共用のお風呂に入って(すごいあったまる)、台本をパラ見してからすぐに寝た。明日は鈴木忠志氏のトークショーがあったので寝坊するわけにはいかなかったのである。充電がほとんどなかったので、スマホのアラームを安心してセットすることができないから余計だ(コンセントが一つしかなく、しかも私が寝る壁側と反対の壁にあったため充電ができなかった)。
すぐに寝た。
ぐっすり。
……。
……ガタガタガタガタ。
途中で起きた。
とてつもなく大きな音で起きた。
スマホを見ると午前2時。
よくよく聴くと、外でびゅうびゅう風が声を鳴らし、障子を鳴らし、そして宿全体をきしみ鳴らしていたのだった。急な暴風。ああ、これはテントで寝ていたら飛ばされていたな、お宿選んでてよかったぁ……とホッと一息。
寝よう。
いや全然寝れない!
だってこの宿ですら吹っ飛びそうな音してるもん!
まさか劇を見に来たことで死の危機と背中合わせになるとは、だれが思おうか。明日はちゃんとトークショーが開かれるのだろうか。いやそれより明日ちゃんと家に帰れるのかな? そもそも今晩生きて寝られるのかな????
不安な夜を過ごした……。
最後に見た景色が花火だからってその綺麗な思い出を抱いたまま、気が付かないで死ぬのは本望ではないけど、悪くはないなと思った。死ぬのは本望ではないけどね。トークショー聞くまでは死にたくない……。
前編、了。
後編(次の日)に続く。
(※1)”車椅子は、人間がもう自分の足で歩けなくなってしまったということの象徴的な表現です。車椅子を使って、人間の精神が自立していないだけでなく、身体も自立しない状態になり果てていることを示したかった。不健康の象徴ですね。”『ゲンロン5』収録「人間は足から考える」50頁17行目より
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