かえるくんがいる方の世界で 『ドリーミング村上春樹』 映画レビュー
村上春樹の短編集『神の子どもたちはみな踊る』が出版されたのは、2000年だ。あれからもうすぐに20年になるなんて信じられない、などと白を切れたらいいのだけど、そういうわけにもいかない。まあそれくらい経ったのだろうなと思う。あっという間でもなかったし、100年くらい経った気がするわけでもない。20年は20年なのだ。
この短編集の登場人物たちは、1995年1月の阪神・淡路大震災に間接的に関わっている。直接的にではなくても、それがある人の生き方や、人との繋がり方を大きく変えてしまうことは、発売当時に読んだときより今の方がよくわかる。それはこの20年のあいだに、私も間接的に大きな地震を経験したからだと思う。
地震のせい、とは一概には言えないのだけど、まったく関係がないとは言い切れない。そういうことが自分にも自分の周りにもあった。もちろんそれぞれの事情は、それぞれに込み入っていて一般化なんてできないのだけど、個人的には結局そうするしかなかったというような、「どうしようもなさ」が体感として残っている。
この映画は、村上春樹の作品を20年以上デンマーク語に翻訳しているメッテ・ホルムのドキュメンタリーだ。でも、映画の主人公は彼女1人ではない。主人公は彼女を入れて3人いる。そして、ここに村上春樹は含まれていない。「人」という表現は不適切かもしれない。なぜなら彼女以外の2つは、人ではないからだ。
主人公の1つは、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』の冒頭の一節だ。
完璧な文章などというものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。
このテキストを、観客はスクリーンの上で何度も見ることになる。そして、デンマーク人であるメッテ・ホルムの発声で新しく聞き直す。観客はそこに、初めて読者としてこの文章を読んだときの感覚を、個別に薄く重ねていくことになる。村上春樹の作品を好きな人もいれば、嫌いな人もいると思うけれど、やっぱりこの一節の鮮やかさは決定的だったと思う。
もう1つの主人公は、日本の夜の町だ。メッテ・ホルムは1人で日本を旅しながら、1人の人間として、別の1人と素のままの言葉をかわし、1人で自分の仕事に向き合う。彼女と一緒に映し出される日本の風景は見慣れているものばかりなのに、本当はなにも見ていなかったことに気づかされる。デニーズも、飲み屋も、飲み屋の隣に座ったおじさんも、おじさんの手も、その手の中のグラスも、ピンボールも、タクシーも、タクシーの運転手さんの声も、首都高も、夜の駅も、夜の公園も、夜の月も、もう一つの月も、ぜんぶ見たことがあるものなのに、なにも知らなかったのだと思う。
短編集『神の子どもたちはみな踊る』の中に、「かえるくん、東京を救う」という作品がある。この「かえるくん」も映画の中に出てくるのだけど、彼を主人公の1人(あるいは1つ)として数えていいのかは、よくわからない。それはもう、イマジネーションの話だからだ。どこまでがなにで、なにとつながっているのか明確な線引きもないから、数え方がわからない。
ここ最近、イマジネーションのことを忘れていたような気がする。その代わりに、クリエイティブという言葉はやたらとよく見かけるようになった。確かに想像するだけでは何も変わらないし、何も解決しない。でもどうしても論理的には割り切れないものや、すぐには解決できないものもあるし、物理的に対処できないときもある。そういうとき、その「どうしようもなさ」を引き受けてくれるのは、クリエイティブな解決策ではなく、イマジネーションの方なのかもしれない。
60分の短い映画だけど、かえるくんがいない世界よりは、いる世界の方が、なんとなくいいんじゃないかなあと思う人には、大きなスクリーンで観る価値のある作品だと思う。
私は村上春樹の熱狂的なファンというわけではないのだけど(たぶん)、誰かに借りたり、文庫になった頃に自分で買ったりしながら、結局は全部読んでいると思います(たぶん)。特にすごいなと感じるのは、あまり好みではないなと思った作品でも、結局最後まで読まされてしまうときです。あの読みやすさは、凄まじいなあと思います。
個人的には、長編より短編の方が好きです。短編は、ひとりぼっちの人が、別のひとりぼっちと限られた部分でつながって、またひとりぼっちに戻っていく姿が美しいなと思います。
若い頃は、女性の描き方が気になったりして、ファンではなかったはずなのだけど(たぶん)、20年経つうちに結構なファンになっていたのかも。