他人と比較する前に、まず自分に誇りを持て
仕事で、新事業のマネージャー的なポジションをやらせてもらっています。
その事業は学生が企業を取材するというものなので、最近多く学生と接する機会があるのです。
インターンシップという形で学生を募っており、そこに応募してくれる学生は皆素敵な人生を歩んでいる人ばかり。
「こういう大人になりたい」と胸を張って言っている人、大学を休学してまで新たなことにチャレンジしようとしている人など。
なかには、学生ながらベンチャー企業で働いている人もいました。
僕が大学生のときには触れ合うことのなかった学生たちばかりで、毎日新たな刺激を受けています。
取材に同席していても、鋭い質問がバンバン飛び交うので、単純に「すごいなあ」と思いながら見守っているのです。
これが、俗にいう「優秀な学生」なんでしょう。
僕の大学時代を振り返ると、勉強と部活のみでした。
朝早起きして野球部の朝練に行き、朝練が終わったらさっとシャワーを浴びて授業へ。
授業が終わったらまたグラウンドへ行き練習。練習が終わったらトレーニングをして帰宅。
帰ったらご飯を食べて風呂に入って寝る。
4年間ずーっとそんな生活でした。
今思うと、本当に大学と野球の世界しか知らなかったし、当時も「世間知らずだなあ」という自覚はありました。
俗にいう「優秀な学生」にはあてはまらないのだと思います。
でも、考えてみてください。
「優秀な学生」の本当の意味は何なのでしょう?
この言葉にずーっと引っかかって、今まで生きてきました。
学校外で色んなことをしている学生が優秀なのでしょうか?
勉強ができる学生を指すのでしょうか?
話がうまい学生を指すのでしょうか?
考えても考えても、僕にはわかりません。
なぜわからないのか?
理由は明確にあります。
それは、
「優秀な学生」を定義づけしてしまうと、「優秀じゃない学生」が生まれてしまうから
です。
色んなことにトライしている学生が優秀なのであれば、一つのことしか頑張っていない学生は優秀じゃなくなる。
勉強ができる学生が優秀ならば、できない学生は優秀じゃない。
話が上手いのが優秀な学生だとすると、話が上手くない学生は優秀じゃない。
果たして、言い切れますか?
僕には無理です。
それぞれ情熱を持って頑張っていることがあるのだから、その情熱に目を向けてあげるのが大人の役割なのだと思います。
でも、人はどうしても比較してしまう生き物。
「優秀な学生」という言葉があるせいで、「自分は優秀な学生なのか?」と悩まされてしまう。
キラキラ輝いてる人を見ると、自分の無力さに気づき自信を失ってしまう。
それは、自分に魅力がないのではなく、比較してしまう材料が簡単にそろってしまうからではないでしょうか。
話を戻します。
今僕が接している学生たちは、確かに「優秀な学生」だと思います。
話を聞いていても、皆色んなことに挑戦して、色んな感情に向き合って、僕も勉強になる部分が多いです。
一方、勉強と野球しかしてこなかった僕の大学生活。
彼らと比べて、負けてるつもりは1mmもありません。
何もうまくいかなかった大学生活でしたが、壁にぶち当たり続けた日々は今の自分の糧になっています。
大学時代の自分は、今と比べて全然魅力のない人間でしたが、その自分にすら感謝しています。
ここまで言い切れるのには理由があります。
それは、
世間でいう「優秀な学生」と比較していないから
です。
確かに、「優秀な学生」と呼ばれる人たちから見ると、僕は全然優秀じゃなかったし、今でも多くの部分で負けています。
でも、それはあくまで比較したら抱く感情であって、比較せずにいれば自分に自信を持てるようになるのです。
だから、「優秀な学生」を目の前にして、自分に自信が持てないと思っている学生も大丈夫です。
まず、自分だけのことを考えて、自分に自信が持てる部分を一つ見つければいい。
たった一つの大切なものが、のちに自分を「優秀な学生」じゃなくて「自信がある学生」にさせてくれるでしょう。
他人との比較や世間体など、そんなものよりもっと大切なものは、自分です。