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本当に必要なのは「失敗してもいいよ」の言葉ではなく「失敗経験のシェア」
「失敗してもいいんだよ」
「失敗していいからやってみなよ」
チャレンジを促す人は、必ずこのように言う。
その通りだと思う。
失敗を恐れて何もしないより、失敗してもいいからとチャレンジした方が、得られるものは遥かに増える。
また、失敗を数多く経験してきたからこそ、そのようなことが言えるのだと思う。
それ自体はいいことだ。
ただ、これからチャレンジしようとしている人に、それで真意が伝わるかどうかについつは再考の余地がある。
大雑把に書いてしまうと、
経験者A「失敗してもいいからやってみなよ!」
未経験B「失敗してもいいんだ!じゃあやってみよう!」
という意思決定にはならないだろう。
人間の心というものは、そんなに単純にはできていない。
要するに、「失敗してもいい」はチャレンジをしてみる決定要因にはならない、ということだ。
もっと言えば、チャレンジしたいけど足踏みしている人が恐れているのは「失敗するかどうか」ではない。
「もし失敗してしまったらどうなるのか」がわからないからだ、と僕は考えている。
「うまくいかなかったらやめればいいじゃん」と生存者バイアスがかかりまくった言葉を簡単に使ってしまうけど、本当に失敗してしまった時にどんな地獄が待っていて、どういう風に対処しなければならないのか、を教えてくれる人はほとんどいない。
そして、成功者はその世界を知らない。
だから、仮に失敗してしまった時のことがわからずに、向き合わなきゃいけない地獄を想像できずに、足踏みしてしまうのだろう。
足踏みして当然だし、むしろ足踏みした方がいいとすら思う。
この世に溢れている言葉は、残念ながら生存者バイアスがかかったものばかりだ。
だから、チャレンジを促す時に、本当に言うべきは「失敗してもいいんだよ」ではなく「失敗した時はこうすればいいんだよ」だと思う。
もっと言えば「失敗をこう定義するといいよ」も必要だろう。
本当に知りたいのは、失敗するかどうかではなく、失敗した時にどうなるか、だ。
たとえば、起業してうまくいかなかった時、「月10万円程度の赤字ならなんとかなるけど、500万円を超えたらさすがに見直した方がいい」などなど。
その数値基準も人によって変わるけど、基準の決め方も参考になるので、「失敗した時どうするか」の共有はメリットがめちゃくちゃ大きい気がする。
これは余談だが、僕は最近「やりたいことがある人を応援したい」「やりたいことを実現するのを後押ししたい」ということを話半分に聞くようにしている。
素敵な考えだとは思いつつ、おそらくその人は地獄を見たことがないのだろう、と考えている。
本当の地獄を見ていたら「やりたいことやりなよ」なんて簡単に口にはできない。
やりたいことに人生を捧げている人は、周りが知らないだけで傷だらけの状態で生きている。
本当に応援したいなら、自分が見た地獄を共有し、その対応策もシェアした上で「こういう風にすれば私が見た地獄は避けられるよ」と教えてあげることが大事な気がする。
チャレンジャーに本当に必要なのは、「失敗してもいいよ」の言葉ではなく「失敗経験のシェア」だと考える。
繰り返すが「失敗してもいいんだよ」という言葉は判断基準にはならない。
それであれば、失敗経験をしっかりとシェアして、判断基準を一つでもプレゼントしてあげるのが、本当の支援だと思う。
少なくとも僕はそういうスタンスの人でありたい。