個別的、具体的なコンテクストから代替可能なロゴへのプロセスと、その対極
最近、期末課題で読むのを中断していたベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」をまた読んでいる。
さーっと読んでいるから全てを理解してるわけじゃないけど、表現は違えどこういうことを何度も主張している。つまり、ネーション(国民、国民メインの国家)は、個別的、具体的な文脈、現象を、代替可能で均質的なロゴだと想像することでできた、人造物だということ。アンダーソンは幾つかの例(時間、フランス革命、人口統計、地図など)を出しながら説明している。
同時に、均質化されたものの対極にいる具体的、個別的なものとは何か、そんなものあるのかと考えている。
時間観の変化
彼によると、近代以前と以後では時間の捉え方が変わっている。ものすごくざっくり言うと、近代以前では質的な時間観が強く、以後は量的な時間観が強い。彼は近代以後の量的な時間を「均質で空虚な時間」と表現した。つまり、誰に対しても平等で、計測可能で、暦に従って流れる時間である。
例えば、訪れたことがない場所へ行って、そこから帰る時、行きと帰りで時間の感じ方は違うことはある。初めての道で、見慣れない情報が多い行きしは長く感じて、帰りは短く感じる。これは質的な時間。それに対して、量的な時間は計測可能で均質的。行きと帰りで同じ道を同じスピードで歩いたなら、かかった時間は同じはず。
人口統計、地図作成、ロゴ化
近代において、時間観の均質化と同じ様に、人々や土地や出来事、物事なども均質化される。人口統計の過程で、様々な異なる人を「インド人」「中国人」「アメリカ人」と均質化してカテゴリーにまとめる。「インド人」「中国人」「アメリカ人」というカテゴリー同士は対等。カテゴライズできない人々は「その他」という範疇に(暴力的に)内包させられる。
地図作成は、土地を俯瞰的に眺め、均質的に区別するプロセスだと言える。世界地図では、全ての国に国境があり、国境同士が隣り合わせていて、国家同士は均質的で対等だと考えられる。例えば世界地図のパズルを想像してほしい。パズル同士は均質的で対等にできている。ただ形と収まるべき場所が違うだけ。
このような個別的で具体的なコンテクストが均質化されることをロゴ化と彼は表現した。ロゴ=シンボルである。フランス革命(革命当時はそんな言葉が果たしてあったのだろうか?)という一連の出来事は「フランス革命」というロゴに変わり、この地方のここにあるこの刑務所は、この国の「刑務所」(複数形)のうちの一つでしかなくなる。
ロゴ化されたものの皮を剥いでいって、最後に残るものは何?
では、ロゴの対極にいる、具体的で個別的なものを捉えようとするとして、それは一体何なのか。そんなものあるのか。
例えば、国家という概念はロゴ的だ。国家同士は均質で対等だと考えられているからだ(あなたが日本ではなく、アメリカに生まれたなら、あなたはアメリカ人になる、にすぎない)。家族という概念もロゴ的だ。家族同士は均質で対等だと考えられているからだ(あなたがこの家族ではなく、あの家族の中で生まれたなら、あなたはあの家族の一員になる、にすぎない)。カップルという概念も同じ理由でロゴ的だ。
では個人は? 俺自身はロゴ的なのか? やはり同じ様な理由から、ロゴ的だと言えると思う。もし俺が今の俺ではなく、あいつだったなら、俺はあいつである、ということで話が終わる。俺が今、この時代に存在していなくて、中世に存在していたなら、俺は中世にいた人、ということで話は終わる。つまり個人という概念もやっぱりロゴ的なのかもしれない。
でも、でもでも、普通に考えたら、少なくとも俺はここにいるやん!とも思う。俺が経験したことは他の誰かがすでに経験してるかもしれないけど、それでも俺自身の経験のはず。俺だけが殴られたら実際に痛いと感じるから。
結論・記述命題と規範命題
要は、これって、前に書いた記事「規範命題と記述命題」と関連してて、記述命題的に考えているのか、規範命題的に考えているのか、って問題だと思う。理論的に突き詰めると、確かに個人という概念もロゴ的だ、ということになる。けど、もっと文脈的に解釈して、それを応用して何かを主張しようとすると、個別性は強調され得る。自分の目的がどっちなのか?って話にすぎないのかもしれない。
まぁ、そんなことはわかってるわ!と思われるかもしれなくて、要はそこをどのレベルまできちんと考えるか。それに前にも書いたが、規範と記述はシンプルに区別することも難しい。
以上。相変わらずオチが無いけど、終わり。