晴れの村。

山陰地方の山奥に、通称・晴れの村と呼ばれる集落があります。
雨の多い山陰地方にも関わらず、非常に雨が少ない土地だと近隣の集落にも知れ渡っていました。
私の叔母はその晴れの村へ嫁ぎました。叔母の実家である、私の祖父の家から車で20分。
そんなに近くても、実家の雨の多さと比べると、まるで別天地の様だと言います。
私も小学生の頃、何度か叔母の家まで遊びに行ったことがあり、確かにその思い出の中では晴れのイメージが強いのですが、むしろ雨の日の事を強烈に覚えています。
小学校低学年の頃でした。

「雨ン日はおもてに出ーじゃないぞ」

叔母の家の老人の言葉です。
それが男性だったのか女性だったのかうろ覚えなのですが、その言葉だけははっきり耳にこびりついています。
叔母に聞いてみた所、晴れの村では雨は女神の涙だと言い伝えられているとの事でした。女神さまが泣いていらっしゃるので、それを見て辱めてはならない、と、そう年配の人は信じていらっしゃるのだと。
当時、まだ昭和だったとはいえ、さすがにそんなはずはないだろうと私は考えました。「狐の嫁入り」の様なもので、「女神の涙」という表現を使っているだけなのだろう、本気で信じてなどいないだろう、そう思っていました。
そうではなかったのです。
その日は夕方からいつもより暗くなってきました。
「雨様だ」
「雨様がござっしゃった」
叔母の家族達が次々と口にし始めました。
そして雨戸を閉め、鍵まで閉め始めたのです。
八畳間が六つ並んだ広い家が、あっという間に真っ暗になりました。
思わず灯りをつけようと電灯のひもを引っ張ろうとして叱られました。
「雨様がさばぁぞ」
辛うじて見て取れたその表情は真剣そのものでした。
次第に雨音が大きくなり始めました。
お腹がすき始めていましたが食事どころではありません。
私は仕方なく、せめて叔母の近くにいようと叔母を探しました。
すると急にすすり泣くような声が聞こえ始めました。
叔母の声だ、と直感的に分かりました。
叔母は普段は朗らかで、人前で泣くようなタイプではありません。
「さばったわ」
誰かが言いました。
お年寄りたちが口々に何やらブツブツとつぶやき出しました。
今思えばお経の様なものだったのかも知れません。
一人のおばあさんが叔母の背をさすりながら熱心に何かつぶやき始めました。
私は怖くなり耳を塞いでしまったので、何とつぶやいているか聞き取れませんでした。
雨音はますます激しくなります。
「ぉそたれ……おそたれぇ……」
叔母の大きな声が、ふさいだ手を通り越して耳まで聞こえてきます。
いえ、それが叔母の声だったのか、それとも幻聴だったのか、もはや判断は付きません。
「はよ、いのーてごしなぃ」
叔母をさするおばあさんの声も次第に大きくなります。
ついに私は耐えきれなくなり、その場から離れようと立ち上がりました。
ここにいてはいけない、ここにはいたくない。
その一心で駆け出し、気づけば玄関まで来ていました。
古い家ではありましたが、玄関はガラス戸で、うっすらと外の様子が見て取れます。
外を、雨の中、歩いているものが見えました。
背格好や来ているものの雰囲気からそれが叔母だ、と感じました。
さっきまで部屋の中にいたのに、いつの間に外に出たのだろう、とっさにそう思ったのですが、そんなはずはありません。
叔母の様なものは、一つではなかったからです。
雨の中を、それらはゆっくりと動いていました。
不意にその中の一つがこちらへ向きを変えました。
こちらへ来る。
そう思った時、後ろから「そこおったら、いけん」と静かに呼びかけられました。
叔母の夫だったと思います。
私の手を引いて、玄関から隣の間へ戻りました。

「そこにおったかぁぁぁぁっ」

叔母の絶叫が轟きました。
私は身をすくめ、立ち尽くしました。
叔母は虚空を見つめ何事かわめいた後、ふっと電池が切れたように横たわりました。
皆が介抱する中、私はただただ立ったままその様子を眺めていました。
老人たちは「はれたけんのぅ、はれたけんのぅ」と口々に言いながら叔母を運んでいき、寝床を用意し寝かせつけました。

今でも悪夢を見ていた様な気がします。
叔母はその時のことをすべて覚えていました。
雨様が「さばった」瞬間、晴れの村の上空から下を見下ろしていたこと。
自分以外にも「さばられた」人が、自分同様に下を見下ろしていたこと。
その中には私もいたこと。
私は「さばられた」覚えはありません。
ただそれ以降、雨が降る度に違和感を持つようになりました。
雨の中歩いていると、後ろから近づいてくる足音が気になるのです。
その足音は、私が立ち止まってもずっと聞こえてきます。
早足になっても、急に止まってみても、一向に変わることなく、同じリズムで。
後ろを振り返ると、そこには私そっくりの何かがいる……様な気がするのですが、はっきりと認識できません。
雨様は、全身焼けただれた姿をしているので、顔が分からないのです。
なんならそれが指なのか、手なのか、足なのかあるいは他の何かだったりするのか。
ただ、間違いなく、雨様が泣いていることだけは分かっています。


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