排便センター
汚いお話になるが・・・
排便という行為には致命的な欠陥があると思う、皆さんには今一度、排便について考えて頂きたい
排便というのは、ウンコを尻から放り出すことである
ウンコとは以下のようなものである
人間の文化において、糞は多くの場合、禁忌されるべき不浄の存在として扱われる。不快な臭いを発し、特に衛生面から見た場合、伝染病の病原体を含んだ糞は典型的かつ危険な感染源である。このことから、クソなど、糞便を指す語彙やそれを含む成句は、しばしば、取るに足らない物、無意味な物、役立たない物、侮蔑すべき物などを形容するのに用いられる。
これだけ読むとウンコというのは思いの外、悪いもののように感じられるのだが、ウンコは肥料などに用いられたりしていた側面もあるので、一概に悪いとは言えないだろう
これを射出するのは動物ならば宿命と言って差し支えない、出来るなら毎日した方が良いとされているし、そしてこれからも排便は次の世代に受け継がれていくだろう、ではこの長い間行われてきた儀式のどこに欠陥があるのだろうか
それは、受け取り手の不完全性にある 排便の流れはこうである
ウンコ出したい→トイレを目指す→トイレ到着→着席→気張る→ウンコ出す→ウンコ着地→ウンコ流す
一見、無駄のない流れなのだが、ある部分にご注目して頂きたい ウンコ出す→ウンコ着地の工程である
ここで、一つ例を出したい それは、バッティングセンターである バッティングセンターと排便は似て非なるものであり、今回、私が排便に対して行う処置が排便のバッティングセンター化である
ざっくりと、バッティングセンターは球を自動で投げるマシーンとそれを打たんとするバッターとおまけではあるが、ホームランという的(目標)によって構成されている これは排便というシステムと極めて似通っている
投球マシーンは排便で言うところの尻に当てはまり、バッターは言うなれば便器の水面、的は各々、心に抱えるものであるかと思われる(ウンコの我慢は便秘に繋がるし、放出時の多幸感は人によってまちまちである)
ここで疑問に思うところがある、バッターの役割が不完全なのである
便器に張られた水はウンコを打ち返さないのである、上空から来るウンコに為す術なく、悲惨にも水面をザワザワさせられるだけの存在なのだ
これだと、均衡がとれない 均衡が取れないとどうなるか、水面が反乱を起こす それがウンコ着水時に跳ねる水である
あれは、無防備に晒されたお尻を無常に濡らされる不快なもので、これをされると不愉快な気持ちになる そうなると、こちらも黙っていられない トイレットペーパーで蓋をしたり、おまるに跨るかのような体勢で発射したりして水面との対話を遮断することとなる
これでは、排便本来のポテンシャルを引き出せない 排便の真価は、お尻⇄水面の相互作用によってのみ発揮される そこで、水面に工夫を施す
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水面システムの構築を開始、これは便器にシーソーを設置することで、まず水の反乱を低減(または、無力化)し、ウンコの重さで水を跳ね上げ、的を狙う 的に水が当たる度に、水面及び便器に対して報酬を支払う 報酬は便器や水の清浄化であったりなど適宜、行う
このシステムの構築により、水面に心地よい挑戦をさせ、また、この挑戦をさせるため、より重いウンコを出す必要があるため、投球側にも熱を入れるきっかけとなり、排便が急加速することとなる(下痢では、シーソーが動かず水面のフラストレーションを溜めることになってしまう)
これをバッティングセンターに倣って、排便センターと名付ける 排便センターはこれまでの排便の常識を覆し、人のお尻、ウンコに革新的な変化を齎し、それによって、お尻、ウンコのみならず、身体にも劇的な変革を与えることだろう