チェーンが外れたような
疲弊
ひと月仕事をせず、ぼんやりと過ごしている。
鬱々としているわけではないが、眠たいと思う時間が長い。そして、とてもじゃないが今までの仕事をしたいとは思えなくなった。
だいたいのことをキャンセルし、眠たいときに寝て、眠たくないときにアマプラで映画を流したり、買い置きしていたsteamのゲームを触ったりして暮らしている。
かれこれ一か月ほどになるか。全く退屈する気配がない。
退屈・暇という感覚については過去に書いたが、ゆっくり休んで元気になった頃合いに「退屈」が発生すると思っている。それが、ない。行きたいところに行って、会いたい人に会って、やりたいことをやる。国の制度に支えられてやりたい放題して平気な顔ができる。でも間違いなく仕事というか、「長期計画で何かを約束して進める」のは、できないと思っている。
きっとそれだけ疲れているのだ。しょうがない。ただこいつの正体に当てがあるのとないのとでは、予後が違うはずなので、今の仮説を書いてみよう。
ターニングポイント
タガが外れたのは4月の下旬だ。
仕事でやるべきことが曖昧になった。
曖昧なものを曖昧にしておくのがしんどくて、仮説を置きながら探り探り進めていた。
たたき台を作っては議論をし、議論をしては直す。
その営み自体はシステム開発ではいたって普通のことなのだけれど、なぜかお客さんとのコミュニケーションがうまくいかない。
まあ詳細は省くのだけど、コミュニケーションがうまくいかないのをなんとかしようと、色々考えた。たくさんの視点を頭に入れて、シミュレーションした。その結果頭が小宇宙みたいになってしまい、言葉がまとまらなくなった。ストレングスファインダー的に解釈すれば、<個別化><共感性><アレンジ><最上志向>の暴走なのだろう。
大きな組織をミクロにシミュレーションしてしまった。
GWで休めば元気になるだろう、と思ったが、あんまり元気にならず、朝もなかなか起きれない。
目覚めをよくするサプリを飲んでみたところ、確かに目覚めはよくなったが集中できないのは変わらず。
しんどい、という話をして、とりあえず一日休んでみたところ、熱が出始めて、そのまま休職の運びになった。
チェーンが外れる
「まじめ」
「頑張りすぎ」
「そんな頑張り方したら死ぬぞ」
「みんなそんなに考えて生きてない」
「もっと気楽に構えていいんだよ」
会社の人からも、友達からも、そんな風に言われてきた。
確かにそう。変なところ生真面目だし、オーバーワークしてた自覚もある。開発をしている時は、ずっとぴりついている。
それは問題をどうにか解決したいからだ。
業務がうまく回らないであるとか。お客さんとの関係がうまくいかないとか。あるいは、新しい世界観を実現したいだとか。
システム開発の現場は、常に「今のままではいけない」特殊な状況だ。その現場で、個人レベルで妥協するのはどうなんだ、と思っている僕がいる。(もちろん全体最適を考えて「やるべきでないこと」はある。それは心苦しいが、やるべきではない。)
そうやって張り詰めている意識をローに落とした瞬間に疲れが噴き出した。
だからなんだか、自転車のチェーンがギアチェンジした瞬間に外れたような感じに思っている。
ギアを回すことはできる。でもどこかに行くことは、できない。そんな感じの感覚。
鶴岡八幡宮でおみくじを引いたら大凶が出た。きっともう、この道は進まないほうがいいのだろう。いい頃合いだ。
システム開発者としては未熟だろうが、だいたい見たいものは見た。
一つずつ嵌め直す
診断は適応障害だった。まあ仕事はできないし、それ以外の事はちょっとは出来るから、適応障害で正しいのだと思う。
今は一年ぐらい好きにやらせてもらおうと思っている。
自転車のチェーンが外れたとき、人はただ、手を機械油まみれにしながら一つ一つ嵌め直すことしかできない。だるい。だるいが、チェーンの外れた自転車を引きずって歩くのはもっとしんどい。
一個一個ギアに噛み合わせて、ひとしきり嵌め直したら少し回して、また別の部分をはめる。少しずつギアの動きが車輪に連動するようにする。
そういうとき、何をギアにしたいだろうか。
システム開発より、もっと小さくて、すぐ手に取れるものを相手にしていた方がきっといい。
関わっていく中で僕は安らいでいきたいし、周りの人も安らげる流れがあるといい。
日本とか、地球とか、夢とか、そりゃ考えられるなら考えた方がいいんだろうけど。それ以上に自分の調子を忘れないでいたい。
そしてどうも僕は言葉遣いに拘りがあるので、言葉をちゃんと遣っていきたい。
そんなわけで、ちょくちょくnoteを書こうと思う。言葉を積み上げることは、楽しいし、積み上がった言葉はどこかへの道になってくれるから。