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松井須磨子と越後高田藩坂木代官・長谷川家

長野県埴科郡坂城町・多聞山大英寺様(以下大英寺と表記)をご訪問させていただきました。

大英寺は、戦国の乱世による荒廃から、江戸時代に越後高田藩・坂木代官を務めた長谷川安左衛門によって復興された坂城町を代表する古刹です。以来、長谷川本家の菩提寺となっております。長谷川家は越後騒動に伴う主家改易により、上田に土着し、堺長薬局という薬種問屋及び茶家となりました。明治時代には分家が松井須磨子を養女としたことで知られております。

江戸時代の坂木は最終的には幕府直轄の天領となりますが、それ以前は諸藩が領有し、1624年から1681年までの57年間は越後高田藩藩主・松平光長公(越後中将)が治める飛地領でした。長谷川家は坂木代官を4代世襲し、各種インフラ整備、坂木宿の拡張、旧領主村上義清公の供養塔建立、戦国の乱世で荒廃した寺社の復興等に力を入れ、公明正大で領民から篤く信奉されていた名代官一族として知られておりました。即ち、現在の坂城町の基盤は越後高田藩時代に整備されたものなのです。又、第3代坂木代官・長谷川安左衛門利次は、藩主松平光長公の娘・松林院を正室としてお迎えしたため、以降の長谷川家は結城秀康公に始まる越前松平家の外戚(女系子孫)となりました。長谷川家霊屋「大英寺毘沙門堂」は、松平光長公より賜ったもので、平成19年(2007)より坂城町指定有形文化財として登録されております。

坂城町指定有形文化財『大英寺毘沙門堂』(2023/11/18撮影)

さて、松井須磨子の生涯において、長谷川家は2度登場します。まず、6歳で上田の長谷川家の養女となり、6歳から15歳までの10年間を上田で過ごし、6歳から17歳までの12年間を長谷川正子として過ごします。

そして、17歳で嫁いだ木更津の初婚相手・鳥飼啓蔵に不妊症にさせられた上に離縁され、自殺未遂を図ります。信州に帰郷しますが、出戻りとなるため、長谷川家菩提寺・大英寺で療養させていただきました。越後高田藩以来の長谷川家とのご縁を大切にする義理堅さ故です。そこで出会った人物が、後に再婚相手となる心優しき前沢誠助。彼は傷心の松井須磨子を癒し、文学と演劇の魅力を教え込みます。そして、共に上京し、演劇の道に導くのです。

坂城療養時代の大英寺松井須磨子居室(2023/11/18撮影)

松井須磨子を大女優に育てたのは勿論、島村抱月です。しかし、養ったのは長谷川家。女優へと導いたのは前沢誠助であり、その舞台となったのは越後高田藩坂木代官・長谷川家の菩提寺・大英寺ということを忘れてはいけません。

長野と新潟のご縁が、松井須磨子を女優へと導いたのです。

多聞山大英寺境内にある松井須磨子直筆歌碑
『マントきて、我新しき、女かな』
(2023/11/18撮影)

プロフィール

堀川健仁
静岡県出身。日本初の歌う女優・松井須磨子養家子孫。松井須磨子の功績を讃え、次世代に伝えていきたいという想いと、新型コロナ禍で苦しんで来た芸術活動を支援したいという2つの想いから、2022年より神楽坂で松井須磨子の顕彰活動を開始し、2023年に「一般社団法人松井須磨子協会」を設立。


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