南京町

It Used to be My Town, too

就学前の短い期間だったが、神戸に住んでいたことがある。
戦後25年、大阪で万博をやっていたころだ。
六甲道と、それと西明石、合わせると期間にして兵庫在住丸3年ほどか。

南京町で初めて食べた手打ちラーメン。
三宮の映画館で見た「メリー・ポピンズ」。
桟橋から眺めた赤いポートタワー。
小さな女の子にとっては夢のような空間だった神戸の街。
その後大阪やアメリカに引っ越しても、心斎橋やニューヨーク以上に憧れの場所だった思い出の中の神戸。

25年前の朝、あたしは神奈川にいてTV画面に映し出される惨状を前に、ただ幼い子供たちを抱きしめて号泣するしかなかった。
あたしはなにも失わなかったかもしれない。
でもあたしのなかでなにかが永遠に失われてしまった。

その後縁あって震災10年後の兵庫県に転勤となって懐かしい播州地方に25年ぶりに戻った。
三宮の街は美しくよみがえっていた。
あまりにも美しく、四半世紀前の面影を探すのに苦労するほどだった。
あたしにとっての「ふるさと」はそこになかった。

人は故郷を出て行く。
自分がどんなところで育ったかをよく知らず、自分勝手な夢を追いかけ、たった一人で大きくなったような顔をして、見知らぬ町で見えない相手と戦う。
ふと寂しくなって故郷を思う。
たまに帰省して、仲の良かった人がいなくなって、なじみの店がなくなって、町の景色が様変わりして、(こんなの自分のふるさとじゃない)などと思う。
勝手に出て行って、違う場所に住んでいるのに、いい気なものである。
そこに留まり、そこで戦い、そこでがんばって生きている人たちにとってはそこは思い出に浸る場所ではない。

あたしには「ふるさと」はない。
だからもちろん、変り行く神戸にあれこれ言う立場にない。
父が連れて行ってくれたお店はもうない。
父ももういない。
あたしももういいおばさんになってしまった。
でも、あたしの心の中の憧れの街、神戸の街は永遠にあのころのままでキラキラ輝いているのだ。

結局加古川での生活も3年と満たないうちにまた転勤と相成り、あたしたちは神奈川へ戻ることになった。
西へ向かう山陽本線が海沿いに差し掛かると明石海峡大橋が見えてくる。
もちろん、あたしが幼いころはなかった。
(きれいだな、明石海峡大橋。)
こうしてあたしの心の中の景色は描き変えられていく。
街は変る。
人も変る。
時は移ろう。
でもあたしのなかで神戸はいつまでも美しいまま。
「さあ、クリス、いってらっしゃい!
関東に戻って、存分に闘ってらっしゃい!」
そうあたしを送り出してくれている気がした。

あたしが知っていた神戸は戦後25年。
さんちかタウンに傷病兵の人がまだハーモニカを吹いて投げ銭を得ていたりした。
あれから25年、それはもう、ずいぶんと長い時間だ - その後生まれてきた若い人には、戦争も震災もない。

だがそこに暮らし続けていく人たちがいる限り、ふるさとも思い出も死なない。
相方が亡くなったあと、住んでいる町を出ようかと悩んだことがある。
一緒に暮らしたこの町で、どこかへ目を向けるたびにつらい思い出がよみがえって、こどもたちも悲しい気持ちになってしまうかもしれないと恐れたのだ。
結局あたしはとどまり、この町がこどもたちの「ふるさと」になりつつある。
そうして時が流れ、このごろはふと目を向けた先に、つらいだけではない、懐かしくて楽しい思い出が、あたしにも子供たちの心にも、蘇ってくるようになったのだ。
ここに残ったことは間違いではなかったと思う - ただそれは、あたしたちがただ、毎日運命を悲しんで泣き暮らしたからではない。
父が家にいないという現実を受け止めながら、でも、一所懸命に家族で力を合わせて生きてきたからだ。


あたしは神戸に何もできなかった。
でもこの日が来るたびに神戸を思い、自分が生きてきた道を思い、未来に思いをはせている。
亡くなられた皆さんの魂がどうか安らかであれと願いつつ、その後成長した若者たちや子供たちの未来が幸多きものであることを祈らずにいられない。

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