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Year 2005-2007

関西に戻ることが決まって、一番楽しみにしていたのが憧れの万博公園でガンバ大阪の試合を本拠地で見る!ということでした。
サッカーを描く、そのために本気で見る、というようになって5年がたっていました。
その中で実感したのはやはり本物を見て描いた絵は(正確には実際にあたしが観たり体験して感じたことをイメージ通りに描いた絵)説得力が違うということです。
怒りや悲しみ、驚きや喜び、なによりも作家が楽しんで描いている絵は見ている人にも楽しさが伝わるのです。
イメージ通りに描くにはもちろんたくさん練習することが大切です。
でも、本物を見ていれば、湧いてくるイメージそのものが全然違うのです。
長野にいる間に日本代表の試合を1度だけ新横浜まで観に行きましたが、(初めての生タカユキ!)それはそれは大きな衝撃を受けました。
そして当時の長野には(2002-2005シーズン)プロチームがなかったので、Jリーグの試合を生で見ることも小さなこどもを抱えたあたしにはなかなか難しいことだったのです。

転居先は兵庫だったのでヴィッセルの試合のほうが近い会場でやっていましたが、あたしは自分がこどもの頃に何度も訪れ、ガンバのホームである万博にこだわりました。
ガンバのユニフォームを着て東海道神戸線に乗っていると(関西に帰ってきたんやなあ。日常的にJリーグが観れるなあ。選手たちに直接声援送れるんやなあ。)と感慨深いものがありました。
スポンサー招待の少年サッカー教室が当選したときは息子はGK日野優選手のグループで教えてもらい、なんとその後の鹿島戦ではベルギーから戻ってアントラーズに復帰していたタカユキも応援でき、親子ともども大満足でした。

大いに刺激を受けたあたしは自分の作品集を作ってスポーツ関連の雑誌を発行している出版社に売り込みをすることにしました。
あたしの頭の中にはアメリカの憧れのイラストレーター、ノーマン・ロックウェルやフランク・フラゼッタ、そしてバーニー・フュークスの仕事のイメージがありました。
そこで同じポートフォリオでも、作品のカラーコピーより印刷して小冊子にしたものの方がアピールになると思ったのです。
何社か送った後、なんの反応もなく、(やっぱり日本のスポーツ報道は写真が中心だからなあ。)としょんぼりしていました。
そもそもあたしはナイーヴに過ぎたのかもしれません。
賞さえ取れば翌日から売れっ子になれると思っていたのです。
イラストレーターの名鑑に載れば、ジャンジャン仕事のオファーが来ると思っていたのです。
ところが賞を取っても、名鑑に載っても、何も変わりません。
全然絵が描けなくて苦しかったころに比べれば、描きたいものが見つかっただけでも幸せだったのに、強欲なもので、だんだんもっとたくさんの人に絵を見てもらいたい、素晴らしい世界があることをあたしの絵で知ってもらいたいと思うようになったのです。
(やっぱりサッカーの絵なんかダメなんかな)と思い始めた平成19年の5月、電話がかかってきました。
サッカー専門誌からの挿絵のオファーでした。
あたしのやりたかった仕事、それも1年間の連載でした。
全国誌にあたしの絵が載る!大好きなサッカーの絵で!!指名の仕事で!!!
幼いころからの夢の1つをまたサッカーがかなえてくれた瞬間でした。

編集部の人たちへの挨拶と連載の打ち合わせのために翌月上京しました。
ちょうどその頃は鹿島から移籍していたタカユキの練習見学をしにマリノスタウンを詣でてから(笑)編集者との顔合わせに臨みました。
(ありがとう、ハニー、あなたのおかげでここまで来ました。もう少し待っててください。)
あの時なんで練習終了後のファン・サービスまで待たなかったのかと今では思います。
あたしはいつの日か取材で会いたいと思っていたのです。
ただの1ファンではなく、彼を描いている者として、彼と対峙したかったのだと思います。
せっかく長い現役生活を頑張ってくれて、いくらでも直接会える機会はあったのに、変なプライドがありました。

実はそのころすでに相方に横浜本社転勤の辞令が出ていました。
(だからまたマリノスは見に行ける、という下心もあったかもしれません。残念ながらあたしと入れ替わるようにアメリカに行ってしまいましたが。)
1年と言われて平成10年に始まった転勤生活は10年ちょうどで終わることになったのです。
その時おにいちゃんは高1、娘は中2、末っ子は小4でした。
あたしは初めてこどもたちにどうしたいかを問いました。
上の2人は進学のこともあるので考えを聞いたうえで、地元関西ということもあり、あたしはこどもたちが望めば残ってもよいと思ったのです。
おにいちゃんは高校には部活が目的で入学したようなもので、インターハイにも出るような強豪でしたので転校したくないと言い出しました。
娘は関東に戻りたいと言いました。
末っ子はお父ちゃんと離れたくないと言いました。
結果、おにいちゃんには学校の寮に入ってもらうしかないという結論に至ったのです。
あたしたちは2008年3月、おにいちゃんを兵庫に残し、5歳になった犬を連れて10年ぶりに神奈川へ戻りました。

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