志願兵最後の夏
Volunteerというのはアメリカでは「徴集兵」に対しての「志願兵」という意味があり、日常でも動詞として「志願する」と使われることも多い。
一方日本でボランティアというと福祉活動や人助けを率先して行う人、というイメージが強く、ことそれを募集するサイドからすると「喜んでただ働きする人たち」ととらえているのではないかと危ぶんでいる。
政治的なクレームや社会的な問題提起をするつもりはないが、東京五輪はとてもがっかりなものであった。
もちろんTVで中継されていれば視聴したし、好きな選手や競技はそれなりに応援もした。
ただ、新型コロナウィルスの蔓延に伴い、会場は無観客となり、関連イベントも大幅に縮小され、そして招致が決まった時には(会場ボランティアをしよう)と思っていた自分もボランティアに応募しなかった。
せっかくの自国開催であったのに、ホストとしての「出場」は我々一般人にはかなわなかったのである。
色々な不祥事やスキャンダルもニュースをにぎわし、大会にミソをつけた。
個人的に一番残念だったのは大会組織委員会に対して抗議のボランティア辞退を申し入れる人が続出したときに、政治家から「参加していただけないのであれば新たに募集するまで」といった発言があったことだ。
(ああ、ここにもいるよ、「ただ働き」論者が。)
こういうボランティアが体のいい無賃労働を提供する人々だと考えている輩はボランティアをしないとあえて発表している人が自分が志願し、時間をかけて準備をし、心から楽しみにしていたことを自ら手放すと表明している重さをわかっていない。
こういう人たちは、たとえボランティアが一人も参加しなくても、アルバイトを(税金で)雇って粛々と運営を続ければよいと思っている。
(なんなら「雇用」している分、バイトを不眠不休の労働環境で酷使しても構わないと思っているかもしれない。)
事実五輪もパラリンピックも普通の世界選手権のように実施され、必要な業務には「賃金」が支払われ、大きな事故もなく、ボランティアなんていてもいなくてもどうでもいいけどとりあえずボランティア参加してくれた人たちには「ちょっといい話」のひとつやふたつマスコミに取り上げてもらって、ユニフォームも余っちゃったりメル〇リに出たりしてるけど、いい思い出ってことで、ね?みたいな扱いだ。
それのどこが「レガシー」なんだ?
それのどこに異文化との遭遇や、一歩踏み出す勇気や、利害関係のない人と助け合って何かを成し遂げる充実感や達成感があるというのだ?
悪いのはコロナウィルスだ ー わかってる。
でも、この「ボランティア=ただ働き」的な思想がある限り、スポーツを愛する人、いや、金銭的利益があろうとなかろうと志願の手を上げる人たちのやる気は搾取され続けるのだ。
せっかくの機会を、無駄にしてしまったのではないか。
ボランティアの定義など知らぬ。
我々は褒めてもらいたいとか、認めてもらいたいから志願するのではない。
自分が楽しいから、というのがきれいごとであるならば、こんな自分でも誰かの役に立つのなら、というのが正直な動機ではないかと思う。
あたしは趣味の一つに献血がある。
アメリカの高校生だった40年前の1パイント献血から始まり、今まで100回以上の献血をしてきた。
先日久しぶりに献血センターに行くと受付で「献血はできない」と言われた。
昨年末から持病の治療用に飲み始めた薬が原因だった。
まさかこんなところで引っかかるのがわかってれば服用開始前に最後の献血に来たものを、それもかなわないこととなった。
薬は飲み始めたら一生、と言われている。
ドナー定年まではまだ10年以上あったのに、取り返しのつかないことをしてしまった。
くしくも会場には70歳の誕生日前に最後の献血をしに来ました、ということで華々しくセンター職員の皆さんに見送られているお爺さんがいた。
あたしは役立たずだ。
役に立つのなら金を払ってでもオファーが来る。
それでも、そんなあたしでも、誰かの役に立つのならと手を上げる。
そんな小さな願いも「いやなら来なくて結構」「替えはいくらでもいる」「お前はもう役に立たない」と拒絶される。
その悲しみが、わかるか。
去年の七夕、104回目の成分献血(血漿)が最後のドーネーションになった。
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