![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/163503517/rectangle_large_type_2_aa670c2eb5fc65e74afe986dd599fcb2.png?width=1200)
【MBTI】MBTIというツールについて考察してみる
はじめに
noteはMBTIに関する記事が非常に多く、筆者もそのうち数部を書いている人間ではある。そんなnoteであるが、各タイプの解説をしている記事や、エンタメ要素を交えた話をしている記事もあり、本当にさまざまなネタが転がっている。その中によく散見されるのが、MBTIに相性は存在するのかという問題であったり、そもそもMBTIは信用に値するのかという話であったりする。これに関して、個人的に少し考察してみたので、それを書いていこうと思う。あくまで一個人の意見であるので、ご理解いただきたい。
MBTI=16ヶ国の国家理論
結論を言うと、MBTIというツールは16個の国家に喩えるとだいぶわかりやすくなるのではないかと思う。
世間にはたくさんの国家があるが、その国家たちに対して4つの対立軸を設けて分類して見るとする。その対立軸はなんだっていいのだが、例えば先進国と発展途上国、英語が喋れる国と喋れない国、パンを主食にする国とそうでない国、海洋国家かそうでないか、などと定めてみることにする。そうして分類して出来上がったのが、16個の国であり、タイプである(今回は心理機能を考え始めると話が複雑になりすぎるので触れないでおく)。MBTIに関してもこれとほとんど同じであり、MBTIのタイプに相当するのが日本であり、「私は〇〇タイプだ」と自称しているのが日本人だろう。私はENTPを自称しているので、この表現で考えるなら「私はENTP人だ」という方が分かりやすくなる、そんな話ではないかと思う。注意点としては、各タイプの国家を構成する人間というのは、日本人というレベルではなく沖縄人やアイヌ人くらいのレベルでかなり似通った人間同士である、ということだろうか。
タイプ論というのは元来こんなにまどろっこしいことをしなくてもそういうものであるというか、そのタイプがその人の本質を表すというわけでもなんでもないのだが、いかんせんタイプ論は可視化されないのでどうにも混乱を生みやすいようだ。それが故に「INFPは社会不適合だ」とか「ENTPはサイコパスなので会社で採用しません」とかいう発言が平気で蔓延ってしまうのだろう。MBTIハラスメントなんてくだらない言葉が生まれたのも、これが原因の1つであるように思える。先ほどのINFPが社会不適合だ云々、の話も、INFP=あなた、という話ではない。日本人のステレオタイプとしては「奥ゆかしくて勤勉で真面目である」などというのがあったとしても、日本人の1人である私は実際には全く奥ゆかしくなくむしろ普段から妙にハイテンションでうるさくて、勤勉どころかやる気0であり常日頃スマホを肌身離さず持ち歩いて堕落の極みみたいな生活をしている、という状態だろうか。ステレオタイプを考えると全くもって日本人らしくない人間ではあるが、これでも私は日本人である。
・・・話が逸れた。まあ要は、それぞれのタイプとそのタイプの人間は全くの別物であり、それは各タイプを国家に、そのタイプの人間を国民に対応させると見えやすくなるものもあるだろうという話だ。この理論を以下『MBTI=国家理論』とでも名付けておく。この理論を元に、MBTI界隈に広がるいくつかの論点について考察してみたいと思う。
MBTIに相性論は存在するのか
MBTIについて考える上で、かなり論点に上がるものの一つが、「MBTIに相性論は存在するのか否か」ということであるが、これを国家に喩えてみると、少し整理しやすくなるのではないかと思う。
まず、MBTIに対して相性が存在する、という方向性で考えてみる。この場合どこの部分を切り取って考えているのかというと、いわゆる「国同士」の相性を考えている状態だと思う。日本とアメリカは自由貿易をやっているし安全保障的にもうまくやっている、友好的な関係にある、とか、お隣の北朝鮮は日本に対してやたら大量にミサイルを撃ち込んでくるので嫌いです、とかそういうスケールの話だったりすると思う。MBTIで相性論を考える場合、例えば巷で囁かれる「ESTPとINFPは相性がいい」とか、「ENTJとISFPは相性最悪です」とかは真偽の程はさておき基本的にそれぞれのタイプという名の「国同士」の相性を考えていると言ってもいい。近頃noteで「そもそもMBTIの創始者は各タイプごとに相性があると明言していたんだ」という感じのタイトルの記事を見かけたが、これもおそらくここに起因していると思う。
ただ、相性というものは大概いい悪いのみの軸で考えることはできない。国同士の例を挙げるなら、日本と韓国はいい例だろう。この2カ国は、政治的には竹島問題だの歴史問題だので様々なトラブルを抱えているが、互いの国民は頻繁に互いの国に旅行に来るしKPOPが大好きな日本人も多い。単に相性がいい悪いで語ることは到底できないだろう。
相性というのはTPOに応じて容易に変わるわけだし、いい悪いの軸のみで考えることは危険極まりない。友人として相性がいいタイプと仕事における上司と部下の関係で相性がいいタイプはまた違ってくるだろう。互いが似ていることが相性の良さに繋がるのか、互いが違っていることが相性の良さに繋がるのか。相性論を語るのであればその辺は丁寧に論を進める必要があると思う。
一方で、MBTIに相性論は存在しないという人もいる。あるいは相性論を持ち込んで議論をするのはやめた方がいいという人もいる。この手の主張をする人がどこに着目しているかと言えば、「A国の国民とB国の国民」という2人の人間の相性である。
ちなみに、私が日頃から記事を読ませていただいているイブリースさんは、こっち側の意見を持っている。詳しくは該当記事を読んでいただきたいのだが、イブリースさんが「相性論は存在しない理由」として考えているのは、「同じタイプの人間と気が合うとは限らない」ということだそうだ。これに関しては本当に同感である。日本人Aと日本人Bをつれてきたところで気が合うかどうかなど分からない。というか、同じタイプの人間同士で気が合うのであれば、日本人が日本人を殺害するといった悲しい事件は起こらないだろう。
違うタイプに関しても同様で、例えばとあるESFPの人が「ネットでINTJの人とは相性悪いって聞いたんでこれから先INTJの人とは絶対関わりません」とか言い出したらほとんどの人はいくら何でも極端だと思うことだろう。それはつまり「北朝鮮とは相性最悪なので日本人は北朝鮮人とは関わりません」と言っているようなものだからだ。北朝鮮人の中にも優しい人や相性がいい人は当然存在するはずだろう。国家同士の相性と異国の人間同士の相性というのは全く相関はないのである。
人間同士の相性というのはかなり多様な要素によって構成されるもので、性格はもちろんそうだが、育った環境、価値観、立場や関係性などあらゆる要素が複合的に絡み合って形成されるものである。MBTIで相性論を考える、あるいは相性論が存在する、というときには、性格以外の全ての要素を削り落として考えられたものである、ということを留意すべきではないかと思うのである。
MBTIのタイプは変わるのか
よくあるMBTIにまつわる単語として、「ミスタイプ」が挙げられる。また、相性論ほどではないが、定期的に目にするのは「MBTIは変わるのか否か」という概念である。
『MBTI=国家理論』を持ち出して考えた時に、ステレオタイプの像と自分の像が全然異なるというのは全くおかしな話ではない。私も自分のことをENTPだと自認しているが、正直最初の方は自分が世間で言われているENTPの像と全然一致しているようには感じられなかったため、本当に自分がENTPなのかと疑念に陥っていたし、なんならそれをネタにしていくつか記事も書いていた。なんとアホらしいことであろうか。
ENTPのステレオタイプがあまりにも実態とかけ離れている、ということもあるが、元々のMBTIタイプの分類がグラデーション模様であることもあり、「ENTPらしくない」ENTPがいたとて、なんの不思議でもないのである。実世界に換算して考えると、いわゆるハーフだのクオーターだのの存在に相当するのだろうか。ENTPの全員がひろゆきみたいに好戦的なわけではない。というかむしろ彼はENTPの中でも尖りすぎている方だと思う。彼がENTPの代表みたいな扱いをされているのが、私は心底納得がいっていないのである。
MBTIの特徴として挙げられるのは、国境線が非常に曖昧であることだ。所詮人間の性格など到底可視化されるものではない。光が波なのか粒子なのか分からんのと似たようなもんだと思う。個人的には、MBTIのタイプはなかなか変化しにくいと思っている。日本人が日本人を逸脱するのは容易ではない。それと同じだ。だが、日本人が全員日本人のステレオタイプに当てはまるのかと言われたら答えはNoであり、時によってそれはアメリカ人の振る舞いだったりインド人の振る舞いだったりに似る、といったそんな感じではないかと思っている。あるいは、TOEICの点数が800点の人間は日本では英語が上手い人とされたとしても、ネィティブの人間には敵わないと言ったようなものだろうか。この場合、本人の実力が変わったわけではない。周りを取り巻く環境が変化しただけである。
そもそも、各個人のタイプを断定すること自体に何らかの意味があるかと問われると疑問である。今まで生きてきた中で、「自分が日本人である」という事実が重要になったことはあるだろうか?私はない。日本で生まれ育ったが故に日本語を使って日本食を食べてみたいな話はあったとしても、自分が日本人であることがそこまで大事になるような状況には陥ったことがないのである。
MBTIを学ぶべきか?
私がMBTIについて調べるにつれて、こんなに便利な道具であればもっと早くに知りたかった、いっそ義務教育とかで教えてくれればよかったのにと本気で思ったことがあるが、今考えると、それは到底正しいとは思えない。先ほどから使っている『MBTI=国家』理論を用いてこれについて考えてみたいと思う。
まず、MBTIを学ぶべきかどうかについて、これは明確に差が存在すると思っている。はっきり言ってしまえば、N型はMBTIについて知って置いて損することがまずないと思う。個人的には、万能とまではいかないが、N型にとってMBTIは今までの人生のモヤモヤを6、7割くらい解決してくれるのではないかと思う。N型に近いS型もそうなのではないかと思う。しかし、THE S型の人間にとっては正直MBTIはそこまで詳しく知る必要がないのではないかと思うし、そもそも本人たちもそこまで興味を示さないのではないかと思う。実際、私の大学のS型と思しき友人たちは、MBTIに対してほとんど関心がなさそうである。
MBTIに関する情報を発信している人たちを見ていると思うことがある。私がMBTIについて発信されている情報を見かけるのはここnoteかInstagramなのであるが、大まかな傾向としてnoteでMBTIの情報のターゲット層はN型、Instagramのターゲット層はS型という印象がある。実際にはS型向けにnoteでガチ考察を発信していている方も多くいて、参考にさせていただくことも非常に多くあるのだが、話の簡略化のために今回はそういう体で考えさせていただく。
どうもInstagramを見ていると、なんだか適当だなというか、この人たち真剣にMBTIを考察する気はないんだろうなというような印象は頻繁に受けるのだが、Instagramは他者理解のための情報が発信されることがメインであるように感じる。多分にエンタメの要素が入っていることもあるが、「どうして相手はこういう行動を取るのか」といった要素が多いように見受けられるのだ。イタリア人のIさんのことを知るために日本人のJさんがイタリアについての情報をかき集めているような感覚に近い。
個人的にはMBTIハラスメントの原因のかなり大きなものの一つであると捉えており、Instagramの仕様の特性も相まって、非常に偏見を生みやすい。ただでさえ言葉が全く足りていないが故に誤解を生みやすいと言うのに、投稿の多くはビュー数を伸ばすとかいいねを大量にもらうとかの目的が全面的に押し出されており、やたらと過剰な表現を使うことが多いのだ。ましてや相手はそこまで興味関心を抱くとは思われないS型である。誤解があるので解かせてほしいと言って詳細に説明をしてもどうでもいいと思われるのではないか。念の為断っておくが、この件で問題になるのはS型ではなく誤解を与えるような情報を発信する側である。S型は悪くない。
一方で、noteで発信されている情報は大抵がN型向けだと感じる。こっちの場合、多くは自己理解のための情報だと感じる。中には勿論他者理解のための情報が発信されることもあるが、なんせnoteは文字が主役の媒体である。読み手がN型だからと言うのも一因としては考えられるが、誤解を生むリスクははるかに低いだろう。そもそもnoteのMBTIの記事を読む人の大半はMBTIについて何らかの興味を持っており、自分でもそれなりにMBTIに対する考え方を持っていることがほとんどだと思う。
N型がMBTIに興味を持つきっかけの多くは自分の人生だのキャリアだの周りと上手くいかないだののマイノリティであり周囲から浮きがちな自分についてより詳しく知るためだと思う。イタリア人のIさんがイタリア人のIさん自身を知るためにイタリアのことを調べているようなものだろう。同じイタリア人のIさんのことを知るためにイタリアのことを調べている、と言う状態でも、誰が調べるかによって意味合いは全然変わってくるのである。
まとめ
今回はMBTIを国家に対応させて考えることでその本質や周りに渦巻く問題が分かりやすくなるのではないかという推論の元考察を進めてみたが、終わって読み返してみると自分自身でも何が言いたかったのかあまりよく分からない。というか、頭の中で言いたいことはちゃんとあったはずなのだが、筆者の文章作成能力が完全に追いついていない。とにかくMBTIは一見分かりやすいが故に扱いには注意が必要なのである。
ちなみに余談だが、私がMBTIの記事を書いている時には大抵の場合は各タイプの国家の部分にしか焦点を当てていないことが多い。何なら自分だけでなく、このnote上に上がっている記事も一定数そういうものがあるのではないか。読む時にはその辺を念頭に置いて読まないといけないということで、MBTIの記事は読む側にも書く側にもかなりハイレベルの国語力を要求するようだ。国語の授業も、案外バカにはできないものである。