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好きなもの

※今回は究極の自分語りです。(いや、いつもか。)苦手な方はそっとブラウザの戻るボタンを押してください。




 中学時代、周りにはやたらとオタクが多かった。アニメとか二次元とか、そっち系の。アイドルグループのオタクってのもそこそこの数いたんだろうけれど、多分あの当時の自分はそっち系の人間と関われるようなタイプではなかった。陰キャ陽キャのカテゴライズを無理やり作るなら、どう考えてもあの中学当時の自分は陰キャ側に属していただろう。まあ、陰キャは陰キャ同士で仲良くなるのだろうと思う。自分は当時(今でもそうか)アニメとか二次元とかには全く興味がなかったため、話についていけなかった。特に中一の頃は孤立していたと思う。あの頃を振り返って一緒に教室移動をするような人間は誰だったかと思いだそうとすると、いなかったが正解になってしまうのだから。

 そしてそのオタクたちは本当に熱量が凄まじい。漏れ聞こえる話を聞いていると、こんな声が聞こえてきた。

 「〇〇ちゃん△△が好きだって言ってたけど、あのキャラクターも知らなかったし、あの話しても通じないんだよ!絶対好きじゃないよね~」
 「ほんとほんと、そんな気持ちでオタクとか名乗ってほしくないよね~」

 多感な時期だったことも影響してか、その言葉は私の心に突き刺さり、まるで抜けてくれなかった。ああそうか、生半可な好きはだめなのか、と。上辺しか知らないものを好きだ、ファンだ、オタクだと言ってはいけないのだと。知らなかったことがばれた瞬間に”ホンモノ”から一瞬で目の敵にされるのだと。軽はずみに好きとは言わないようにと心に誓った。

 そんな矢先、どこかのタイミングである教師が「好きなものを作れ」と言った。酷な言葉だ。まあ、時期が悪かっただけなのだが、両方向の意見に挟まれた私は、同じ部活の親友Y(仮)にいつの間にかこんなことをぶちまけていたらしい。

 「好きなものなんてないよ」と。

 そこに至る経緯を語ったのかどうかは覚えていないけど、Yは困ったように眉尻を下げ、こう言ってくれた。

 「好きということに何の問題があるの?知識量とか関係なしに、好きなものは好きだとしてもっと楽に好きだと言えばいいんじゃない?」と。

 それでもあの言葉は呪いのように私を縛り付けていたのだろう、中々納得できなかったというか、まだまだ解放されなかった。

 その後、勉強と部活だけの生活に味気がなくなって、ありとあらゆるコンテンツに手を出した。せっかくだから、「これ好きなんだよね」と胸を張って言えるようになりたいと思ってめちゃくちゃのめりこむように勉強した。あの時の自分はハマっていたのだろうか。何となく違う気がする。「好きなら知らないといけない」という強迫観念があって、グッズを持てばファンと言えるのだと謎すぎる思い込みを持って貴重なお小遣いをグッズに溶かした。もはや狂気の沙汰だ。あの頃の自分が好きだったのはどう考えてもあの時多量の時間を溶かしていたコンテンツではなく、Yとの会話だっただろう。彼女の話は本当に面白かったし、色々考えさせられた。辛口というべきか、正論でぶった切りにする彼女に私も多大に影響を受けていると思う。というか、今の私の性格の半分くらいは彼女の影響を受けているといっても過言ではない。彼女が同級生だったとは信じがたいし、何なら信じていない。同級生と言う名の仮面を被っただけで、本当は人生10周目とかじゃないですかというような深い話もしていたし、それでいてどこか現代というか世間に対して諦観を抱いていたように映った。


 それから、高校生に上がり。中高一貫校だったので引き続き彼女とは仲良くやっていくものかと思いきや、色々あって彼女は高1の時に転校した。偉大な先生を喪った時のような気分だった。

 一方で、相変わらず好きなものへの呪縛に囚われていた自分はそろそろ限界が来たようだ。端的に言えば、飽きた。何をやっているんだろうと。その頃がちょうど化学に楽しさを覚えて色々な先生と関わり始めて色々な話をした時期だったのもあるだろう。わざわざ好きなものを作らなくてもあの頃は充実していたのだ。

 そんな折、北京五輪を見た。いや、見たというのは不正確だ。情報を追いかけていた。リアタイでは見ていない(リアタイで見るとなぜか負けるため基本的に見ないようにしていたのだ)。情報を追いかけていた競技は…フィギュアスケート。かつて平昌五輪の頃に名前を聞いた坂本花織選手が出場していた。あの五輪は本当に色々複雑な状況でありながら、坂本選手は見事銅メダルを獲得した。

 その後も自然と情報を追いかけて、いつの間にか知らないうちにルールも調べ始め、ジャンプの見分けがつくようになり、スピンの種類やレベルも理解できるようになり、テレビで放送されている試合を見て、Twitterで片っ端から情報を集め始めて…気づいたらフィギュアスケートが好きだと公言していた。


 時間は飛んで、私は無事志望校に合格し、卒業もした。3月末、久々にYと長話をした。相変わらず人生何周目だろうかこの人と言いたくなるほどの豊富な知識と情報量が詰まった話は何年経っても面白かった。
 どんな流れだったかは忘れたけど、例によって私はまたぺらぺらとフィギュアスケートの話をしていたらしい。彼女はそんな私を見て、


「昔好きなものがないって言ってた○○(私)ちゃんが、今こうやって好きなものに出会って楽しそうに話しているところを見れて嬉しいよ」


 と言ってくれた。

 おそらくその時の自分はかなりの出来栄えの間抜け面を晒していたことだろう。虚を突かれ、目を見開いた。そういえばそんな時代もあったなあ、と。その後も他愛無い話は続いた。


 そして今日、ふと彼女の言葉を思い出してあたりを見回してみた。ベッドの引き出しには大量の小説が並び、机の横の棚には自分が好きで選んだ学部の教科書が並べられている。一人暮らしを始めて買いそろえた料理道具のおかげで私は日々の料理を楽しめているわけだし、スピーカーからは好きなアーティストの曲が流れている。ハリポタグッズやハリポタの小説も至る所に置いてあり、ファイルの中には今度人生初めて行くフィギュアスケートのチケットがしっかり収まっている。そして、大半の家具や物は大好きな青色で埋め尽くされ、最近始めたこのnoteに素直な自分の考えを、好きなものを文章にしている。



 こんなに好きなもの、たくさんあったんだ。




 好きの度合いを比べる必要なんて全くなかった。他人の方がお金や時間を大量に注いでようが、全く関係なかった。そして、好きなものに囲まれた自分はまごうことなき幸せを手にしていた。そう、ようやく気づけた。

 私は青色が好きだ。料理が好きで、カラオケも好き。ピアノも好きだし、noteも好き。髭男も、セカオワも、スピッツも、→Pia-no-jaC←も好きだ。最近だと、ミセスも好き。ライブに行ったり、CDを買ったり、雑誌やグッズを買ったりしないと好きと言ってはいけないという決まりなどないのだ。私はCDをTSUTAYAで借りてウォークマンに落とし込むタイプのライト層ではあるが、それでもこれらの曲は好きでほぼ毎日聞いているししょっちゅうカラオケで歌っている。これを好きと言わずして何と言うのだろう。小説を読むのも大好きで、大河ドラマも好きだ。ハリポタも大好きだ。せっかく買った英語版賢者の石の本はまだまだハリーがホグワーツに行く前で止まっているが、何とか夏休み中に読み切りたい。早くツアーもUSJも行きたい。そして、フィギュアスケートも好きだ。この種目は本当にスポーツとしては特殊で、多分アイドルオタクとかに1番近いような気がする。最近はそこまで最新の情報を追えているわけではないが、それでも好きな選手の演技は今でも見返している。noteを使って自分の考えを言葉にするのも大好きだ。

 そして、何より友人と様々な話をしている時間は本当に至福だ。遊びに行くのも楽しいけど、やっぱり一番楽しいのは話をしているとき。勿論話し相手のことも。たくさんの気づきをくれたYも、めちゃくちゃオタクで明るい人かと思いきや何だか常軌を逸した不思議な行為をするあの子も、別ベクトルで不思議で自分には絶対思いつかないような行為をしてそれを当然のように語るあの子も、同じ話ができて喜びすぎてテンションバグってなぜか会話のタイミングが一致してまたテンションバグを発生するあの子も。全員書いているとキリがないけど、仲良くしてくれる友達はほんとうに大好きだ。みんなありがとう。

 そしてこの世に私を生んでくれて、いつも支えになってくれる親も、マイノリティだけど頑張って生きている弟も、何かとドジな私を慕ってくれる従妹も、本当に大好き。

 そして、たくさんの好きに囲まれて、幸せを嚙み締められている自分のことも、ようやく好きになれたのかも。失敗しても笑いながら頑張る私も、遠くから見てると滑稽で、でもそれが面白くて嫌いじゃない。

 もう自分の好きを見失うことがないように、ここに書き残しておこう。

 こんなにたくさんの好きなものがあれば、きっと私はこれからも笑顔で生きていけるはずだから。


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