【MBTI】私は本当にENTPなのか?第3弾 ~世界観を問う44問やってみた(後編)〜
【前編の記事はこちら】
【今回使用した質問はこちら】
前回同じ質問の記事をやったはいいのですが、あまりにも長くなりそうだったので、続きです。ぜひご覧いただけると幸いです。また、コメントもお待ちしてます。
問23.<教育1>
スパルタ方式は実を結ぶ教育だと思いますか?
教育によって目指す先がどこなのかによってだいぶ変わると思います。例えば一般に教育と言って最も連想しやすい義務教育においては、最低限の知識すら知らない状態ではあまりにデメリットが大きいので、最低限まで引き上げるためのスパルタ教育は仕方がないのかなと思います。最低限の知識がないとそのあとは積み重ねることができないので。
ただその後の教養に関しては、スパルタ教育は無駄以外の何物でもないと思います。結局教養を身に着ける段階においては本人に好奇心や探求心、意欲がないと何をやっても意味はありませんから。その場しのぎで終わってしまいます(大学の単位制はまさに典型的かと)。
逆に、就職してからの研修などでその職業において必要なことを教育する際にはこれはスパルタにしなければどうしようもないかと思います。嫌ならやめればいいのスタンスでいいと思いますがね。だって、ミスを連発する外科医に執刀してもらいたくないじゃないですか。それと一緒だと思います。パイロットが飛行機を安全に飛ばすのは使命ですし。スパルタ以外の方法で必要なレベルに達しないのであればスパルタを使うしかないのかと。
総じてスパルタ教育は実を結ぶかどうかという論点で語るものではないように思います。
問24.<教育2>
飛びぬけた学力や才能を持った生徒がいた場合、学校側はその生徒に特別な措置を取るべきでしょうか?それとも足並みを揃えるのが大事と一律的な教育を受けさせるべきでしょうか?
多様性のあり方の一つでしょうね。この質問に答えが簡単に出るのであればこの世界の問題の3割は解決するのでしょう。
結構疑問ではあるのですが、こういうのってただ認めるだけというわけにはいかないのでしょうか?飛びぬけた学力や才能を持つからと言ってそれを抑えこめと言っているわけではないんです。ただそれはそれとして社会に適応するという点で飛びぬけていない点を補正することは必要。とびぬけた才能は学校の外で思う存分使ってくれればいい、と個人的には思うのですが。飛びぬけた才能や学力を持っている生徒の能力は社会に必要なすべての要素が飛びぬけているのですか?違うと思います。むしろ、突出した何かがあるということは欠けている部分も常人より大きいとしても何ら不思議ではありません。学校に縛られる時間は所詮1日のうち8時間程度。残りの16時間は自由に使うことができるのですから、学校側はその生徒にとって足りていないと思う部分を埋めるようにし、突出した才能は課外活動で存分に生かしてもらう。そのためのアドバイスやサポートをする程度に留めればよいと思います。
問25.<婚約>
人生におけるイベントとして、結婚はごく当たり前のことだと受け入れていますか?また、結婚における一夫一婦制は番いの形として理想的でしょうか?
結婚という一つの形がある、という程度の認識です。正直自分の中では自分が結婚するというビジョンが全く見えていません。当たり前だとは考えていませんが、結婚したとしてもおかしくはないと思います。
一夫一妻制は倫理的には当然の形なのでしょうが、生物的にはかなり歪な形でしょうね。人生で1人の人間と何10年も一緒に過ごすということそのものがかなりストレスです。そもそも何のために結婚するのかと言えば、子孫を残すためでしょう。子孫を残すためならむしろ多夫多妻の方が合理的です。より多くの子供を授かる可能性がありますから。それをしないのは人間が他の動物と比べてはるかに複雑な脳を持ってしまったが故に倫理観なんて言葉が生まれ嫉妬心を募らせるようになってしまったからでしょう。人間はこういった形で滅びるのかもしれません。これも世界の創造主が作った人間の弱点の一つなのでしょうか。
問26.<知識と認知>
知識によって世界の捉え方は変わると思いますか?例えば植物や魚の名前、歴史的経緯、その作品が生まれるまでのバックボーン、作者の経歴など。
むしろ変わらないと思っている人にその理由を聞きたいです。
問27.<学習>
自分が正しいと信じていた手法が通用しないと悟ったとき、柔軟に考えを変えることができますか?それとも訂正せず愚直に進むことの方が多いですか?
考えを変えることの方が多いと思います。結果を出さなければいけないのであれば、通用しない方法を愚直に繰り返すのはただの時間の無駄です。
ただ、何かにおける手法に関して、全く同じ方法でずっと続けるということはないのではないかと思います。伝言ゲームがなぜ成立するのかと言えば、思っている以上に一つの物事を全く同じ状態に維持するというのが難しいからです。万物は移り変わるものです。それは人間とて同様かと。自分が正しいと信じて続けた手法も、無意識のうちに変わり続けていると思います。
問28.<革命>
世の中に革命を起こしたいと思いますか?或いは、誰かが革命を起こすことを期待していますか?それとも、今の世の中には満足していますか?
革命を起こしたところで何が変わるのでしょうか?変化というものは必ずしもいい方向に向かうとは限りません。一時期の急激な衝動よりも、長期間の小さな積み重ねの方がより大きな変化をもたらすと思います。
今の世の中に満足しているかと言えば、微妙です。人間の欲望にはキリがないので、この質問は誰に聞いても完全には満足していないと返ってくるのではないのでしょうか。どんな社会にも、いやどんな物事にもメリットもデメリットも存在するのですから、どれほど社会を変えようとしたって完全に満足できるようにはなり得ないと思います。そもそもメリットとデメリットってコインの裏表みたいな関係ですからね。重要なのは今の世の中に満足しているのかどうかではなく、今の世の中に折り合いをつけられているかどうかだと思います。
問29.<快楽>
酒池肉林とも言うべき快楽の海に溺れたいと思うことはありますか?快楽とどう折り合いをつけていますか?
(本来、酒池肉林に肉欲の意味は含まれていないようですが、ここでは含めています)
性欲が生み出す快楽の海に関しては溺れたいどころか近づきたくないです。自分の興味を満たし、更なる興味を刺激するような会話ができる相手とずっと一緒にいて四六時中話しているという快楽には溺れてみたいと思いますね。ただ、溺れてみたいと言っている時点でダメでしょうね。溺れたら最後返ってこられるかどうかなど分かりませんから。
快楽というか欲望との折り合いのつけ方は、18年間偉大なる母親に「たまに会うから、たまに経験するから良いのよ、毎日のように会って毎日のように美味しいものを食べたらいつしか慣れてそれが素晴らしいことだと気づけなくなってしまうでしょう」と言われ続けたので、それを思い出してブレーキをかけています。あとは睡眠です。寝たら驚くほど簡単に忘れることができるので。それでも一時でも忘れることができないほどの強い欲望は自己像を頻繁に見失う私にとっての貴重なデータなので大切にしています。
問30.<読書>
読書に何を求めていますか?本を読んで得られるものとはなんでしょうか?また、本を読むことと実際に体験することとではどちらにリソースを割きますか?
ページをめくりながら続きが気になり続けて没頭し、気が付いたら読み終わっている、というあの感覚ですね。私が読む本は専ら小説なので本を読んで得られる知識は微々たるものだと思います。読書が好きだというと賢そうと言われがちですが、ぶっちゃけ小説を読んでいるのはドラマや映画を観ているのとさほど変わらないと思います。私は視覚情報や聴覚情報より言語情報を取り入れるほうが得意だから読書やネットサーフィンを選んでいるだけです。読書で得られるのは、言うまでもなく安らぎと快感でしょう。
後者の質問は想定されている本のジャンルが違いそうですね。料理本とか自己啓発本とか旅行記とかが想定されていませんか?少なくとも小説(特にファンタジー系)で起こったことを体験することなんてほぼほぼ不可能ですよ。解釈に解釈を重ねてこの質問を「机上の空論を好むか実際にアイデアを形にすることを好むか」と読み替えると、圧倒的に机上の空論を好みます。考えることそれ自体が私にとっての娯楽だからです。
問31.<誰も知らないわたし>
寂しさであっても承認欲や自己顕示欲であっても、もっと私を見てほしい、という気持ちはありますか?
あります。まあ、このnoteをやっている時点で承認欲及び自己顕示欲が爆発しているのは明白でしょう。
ただ、このnoteを書いているのは、承認欲や自己顕示欲を満たすためだけに書いているというわけではなく、自分が意見を出すことで相手の意見や反応を知るということが目的です。球技に喩えると、私はサーブを出している状態です。読者の方には、私の想定をあり得ない方向から覆す変化球レシーブを期待しています。いくらサーブを出してもレシーブが返ってこなければただの寂しい人間ですから、究極の欲求が「私を見てほしい」になるのは間違いないでしょうね。
問32.<機械>
機械や兵器、ロボットにロマンを感じますか?機械の扱いは得意でしょうか?また、自分のことを機械の様な人間だと思ったりしますか?例えば、人間の応答より機械の電磁的なシグナルの方が信頼できると考えたりしますか?
そこまででしょうか。機械類そのものにロマンを感じることはないですが、ロボットやAIの開発を通して人間を理解するということには興味があります。いつか人間の脳みそを開発できるのだろうかという点でロマンは感じているかもしれません。
自分のことは機械とは遠く離れた人間だと思っています。機械というのは徹底的に無駄を省いてより効率的に物事を行うものですが、私の思考は徹底的に無駄を生み出しています。このnoteも他者から見たら無駄そのものでしょう。私の中には少なからず予測不可能な返答を期待している心があるので、電磁的な信号などどんなに複雑でも予測ができるだろうと思うと人間の応答の方が信頼できますし、面白いと思います。
問33.<意味・解釈>
一意に定められ、解釈の余地が生まれない表現は好きですか?もしくは、「どう受け取るかは鑑賞者の自由」と受け手側の想像力に委ねたり、起承転結がないような、意味を空中に放棄したような荒唐無稽な表現の方が好きですか?
後者ですかね。基本的に私にとって小説やドラマ、映画などの作品においてもっとも楽しみなことが様々な人がそこから考察したことや感じたことを知ることです。特にドラマなんかではドラマを見ている時間よりも他人の考察を知るためにTwitterを読み漁っている時間の方が圧倒的に長いと思います。先ほど自分のnoteはサーブだ、といいましたが、本来はそこまで自分の意見を出すことは好きではありません。前編で質問にありましたが、「どんな立場からでもそれなりの意見を形成することができる」ということは裏を返せば本人が持つ強い意見が存在しないということです。私が最も好きな立ち位置は相手の意表を突くようなレシーブによってさらに予測不可能な反応を生み出すことができる場所です。
そう考えると一意に定められた表現はそれ以外の表現を探すという楽しみもあるような気がします。大抵の作品は作者の思い通りには受け取られませんし。前言撤回。どちらも好きです。
問34.<グローバリズム>
地球というスケールで物事を考えたりすることはありますか?
頻繁に。
問35.<命の平等さ>
イヌの死骸とヘビの死骸とサカナの死骸とゴキブリの死骸とニワトリの死骸とヒトの死骸にあなたは区別をつけますか?
つけるでしょう。特に魚と鶏の死骸の一部は食べ物として我々食べてますからね。
犬や蛇、ゴキブリの死骸だったらおそらくモグラをはじめとする所謂分解者と呼ばれる生物たちが時間を掛けて無機物まで分解してくれるのでよいのですが、ヒトの死骸は大きすぎて放っておくと一発で感染症を引き起こしますからね。適切な対処をする必要があるかと思います。
問36.<相性>
MBTIの様な人間を類型するツールが、例えばマッチングアプリにおいて相性のいい相手を効率よく探すために使われることに対しては肯定的ですか?否定的ですか?また、MBTIのタイプとは無関係に、人間と人間の関係性に相性というものは存在すると思いますか?
肯定も否定もしないです。それをする権利が私にはありませんから。
以前、インスタで石鹸をピーラーで薄くして有効利用する方法を紹介していた投稿を目にしたことがあるのですが、そこでコメント欄に「ピーラーを料理以外の目的で使うとは何事か」といったことが書かれて絶句しました。別に道具をどう使おうがその人の自由じゃないですか。むしろそういう柔軟性がなければ非常時本当に対応できなくなりますよと言いたくなりましたね。
MBTIを婚活に使うことに関しても似たような理論で否定はしないです。その人がそう使うこと自体は否定しません。ただ、私や他者に対して婚活に使うことを強要してきたら話は変わります。あなたがどう使うかどうかは自由ですし、それを肯定も否定もしないので、私がどうするかも放っておいてください、というスタンスで生きているので。自分と他者との間の境界線を土足で踏み越えてくる奴に対しては否定的な目で見ます。先ほどのインスタの件も似たようなものかと。
相性はどんなものであっても存在すると思います。ナトリウムと水というこの世でもかなり小さなレベルでも相性は存在しますからね。塩素系洗剤と酸素系洗剤の相性など言うまでもないでしょう。ならば人間にも相性は存在すると思います。
問37.<人間で非ざるもの・ヒューマニズム>
あなたは人間のフリをしていることがありますか?
実は私は妖精で人間に擬態しているんです!とかを想定していますか?残念ながら現実はつまらないのですよ。可能ならばいつでも魔法使いになりたいです。
わざと人間らしいことをすることもないですね。私は自分を”人間”ではなく”私”として認識していますから。私らしいことをしても人間らしいことはしないです。
問38.<勝負>
勝負の際は貪欲に勝利を欲する方ですか?そうではなく、自ら望んで敗北を選んだりしますか?また、勝つか負けるか分からない勝負に挑むことはできますか?また、戦う相手は自分と自分以外のどちらの方が多いですか?
勝利すること自体も目的ですが、それ以上に勝利するために様々な工夫をしていくのが好きです。やっぱり頭を使いアイデアを瞬間的にポンポン生み出す時間ほど至福な時間はないです。
望んで敗北を選ぶことは絶対にありえません。それは「私のアイデアが尽きた」ことを宣言するに等しく、すなわち私のアイデンティティを放棄することと同義だからです。やるとしても戦略的撤退くらいでしょう。後は、死者を出す戦争とかではなく、この勝負がスポーツをはじめとする健全な競争であるならば、相手に対して降参したり手を抜いたりすることは侮辱以外の何物でもないと思っています。競争は勝つことそれ自体ではなく、自分がどこの位置に存在するのかを確かめる上で貴重な場所だと思っているので。手を抜くことはその機会を翻弄しめちゃくちゃにすることなので、少なくとも勝負事はちゃんとやると思います。という理由があるので、勝つか負けるか分からない勝負にも挑むと思います。
戦う相手は基本的に自分以外です。自分の意思が見えていないので。
問39.<政治>
投票には行っていますか?行っていませんか?それぞれの理由は何でしょうか。また、行くべきだと思いますか?行かなくてもよいと思いますか?
ついこの間選挙権を獲得したばかりなのでまだ選挙に行けていないですが、投票には行くと思います。権利は行使するものであり、放棄するものではないからです。
政治批判をしている人というのは自分を何様だと思っているのか、と思うことがよくあります。政治を批判する癖に自分は立候補とか絶対しないですからね。政治は私がやる必要はないことですが、誰かがやらなければいけないことです。政治家は私がやらないことを代わりにやってくれている。政治を腐敗させているのは、政治家だけではないと思います。批判しながら自分は陰から見ているだけの批判野郎も、無関心で何もしない人も腐敗に加担していると思います。政治批判野郎は早く選挙に立候補してくれませんかね。私はまだ選挙に立候補できる年齢ではありませんし。
そういうわけで、選挙は政治の中枢に関わることのない私が唯一責任を持つことができる行為です。正直投票は権利ではなく義務でもいいと思っているくらいには、投票には行くべきだと考えています。政治批判野郎の中でも声が大きい奴は大抵投票には行っているようなのでだマシですが、無関心層は本当に質が悪いです。政治に無関心な人に限って自分に不幸が降りかかった時に文句言いだしますし。文句言うならそれにふさわしいだけの行為をしてほしいものです。
問40.<死>
死ぬこと以上に恐れているものはありますか?また、観念的な死に囚われたりしますか?
私はそもそも死をそこまで恐れていないのですよね。死とは二酸化炭素と水に変わる準備段階ですし。死以上に恐れているものがあるとしたら、これまでお世話になった人、特に親に対してその恩を返すことができないことです。逆に言えば、その恩さえ返すことができたらさっさと死んでいいとすら思っています。この地球には科学だけでは到底説明できない不思議な力があるようで、必要な存在を生み出し、不要なものを排除する力があるんですよね。恐竜の絶滅はかなり典型的だと思っていますし、生態系もそんなものだと思っています。私が死ぬのは私が不要と判断された時なのでしょう。今生きているのはまだ私がこの先の未来で必要となる時があるのだと勝手に解釈しています。いつか必要になる時のためにせいぜい精進したいですね。
まあこんな思考をしているくらいなので死に囚われたことはないと思います。
問41.<倫理>
人にやってはいけないことなどないと思いますか?
人にはやってはいけないことがないのではなく、人がやっていいこと、やってはいけないことを判断するだけの権利がないのだと思います。
問42.<繁殖・遺伝子の継承>
仮にあなたの代であなたの家系が途絶えることになったとき、そのことに後ろめたさはありますか?
残念ながらありません。親に一度断りを入れたら「どうだっていいそんなの」と返ってきたので、親も私も「家」に関するこだわりは皆無だと思います。まあだからこそ私は生きる目的を模索しているというのもあるのですが。
問43.<運命・越えられない壁>
運命に対して前向きですか?後ろ向きですか?それとも、運命などないと考えますか?越えられない壁などありませんか?
この質問集ちょくちょくなんでそれが同列に並ぶのかと言いたくなるものがありますよね…。運命と越えられない壁は少なくとも私の中では同列に扱われるものではないです。
さっきの死の質問でも述べた通り、私は俗にいう運命に従って生きているのだと考えています。社会で必要になるその時までは生きているし、そのために必要な進路を歩んでいるし、社会で役割を全うしたら死ぬのだと思っています。
少し話は逸れるのですが、時間感覚として、多くの人は過去⇒未来という流れだととらえているようですが、むしろ私の場合は未来⇒過去だととらえています。歩く歩道やエスカレーターを想像してみてほしいのですが、大半の人にとって主体は乗っている人間にあるのに対し、恐らく私の場合主体はエスカレーターや動く歩道のレールにあるのでしょう。私はどちらかというと「運命というエスカレーターに乗せられている」という感覚の方が強いです。
越えられない壁に関しても、運命が必要とすれば乗り越えられるでしょうし、乗り越えさせてはいけないと考えたら乗り越えられないのでしょう。
問44.<正解>
普遍的なただ一つだけの正解を求めていますか?それとも、そうではありませんか?
ものに寄りますが、大抵は後者です。前者を求めるのは数学や物理を扱う時でしょうか。あれは基本的に正解とされる理論の積み重ねの上で成り立つものであり、そこがぶれたら一からやり直しです。一方で、残りの大半は、特に人間の意思が関わる問題は人の数だけ答えがあればいいと思っています。
ちなみに私にとってのMBTIは完全に後者です。私にとって人間の心理はどこまで行っても分からないものですし、正解もないものだと思っているので、”偽物”を真っ向から否定しにかかるMBTIの公式団体とやらを心底軽蔑していますし、唯一正しいものとして異常に高い金額を設定している公式セッションには絶対参加したくないと思っています。
途中自分の感情が乗りすぎて主張強めになってると感じるところがありますが…。答えるのは結構楽しくてあっという間に終わってしまったのですが、これ読む側はめちゃくちゃ大変だったかと思います…。本当にここまで読んでいただきありがとうございました。
タイトルは自分がENTPなのか?という疑問になっていますが、これ思いました。多分この質問に嬉々として答えるのはENTPくらいです笑
質問がかなり抽象的なので100の質問とは訳が違うだろうなと。ただ、色々な意見を聞いてみたいので、よければコメント等お願いします!