アイドルのみぞ知る②
知らないでいて
美術室の窓からレモン色の月を見ていた。
もう、夜なのか。
美術室には私ひとりだった。そういえば「黒木さん、鍵よろしくー」って、先輩に言われたような。
絵を描いてると時間が速く速く過ぎていく。画用紙に好きなように広げた妄想の世界へ絵の具で色を落としていく。心が静まる気がする。潜水艦で海の底、深く深く沈んでいく感覚に包まれる。潜水艦も、海の底も、知らないけど。
美術室の窓の外は夜色。冷たくて美味しそうなレモン色の月が私を見下ろしていた。
日曜の朝は妹の遥と『パン屋大福』へ行く。
私はチョコレートパンとつぶあんぱんときなこクリームパン。遥はクリームパンとマーマレードパン。私も妹も、めったに他の味を買わない。それは、お気に入りの味に少しも飽きてないからだと思う。
家に帰ると、ミルク多めのカフェオレを作って、日曜の朝に放映しているアニメを見ながら、パンを味わう。
遥は、クリームパンとマーマレードパンをひと口ずつ交互に食べる。私は、買ってきたばかりのほんわりしたパンを冷凍庫へ入れて、一週間前に冷凍しておいたパンを食卓へ置く。
カフェオレを半分飲んだころ、ほど好いパンの状態になる。ひんやりさっくりしたパン生地。アイスクリームのようなチョコレートやつぶあんやきなこクリーム。たまんない。
こんな食べ方『パン屋大福』の主人はカナシイ顔をするだろうし、遥は呆れて顔をフリフリする。
でも、やめられない。
この奇妙な私の好み。妹以外に知られたくない。
どうか、だれも、知らないでいて。
まただ。また、できた。あごの下に。いつもの場所に。いつだって突如現れるんだ。
にくったらしい白ニキビ。
私はため息をひとつして、エイヤっと白ニキビをつぶした。
「うっ」
妹の遥が低い声で忠告する。
「つぶしちゃダメだよ。つぶすから同じ場所にできるんだよ」
わかってる。わかってるのに。白ニキビを発見するとつぶしちゃうのだ。
つぶされてヒリヒリしてる白ニキビを妹がくれた小さなばんそうこうで隠した。
それにしても、私が白ニキビをつぶすときの顔ったらコワすぎる。妹以外に知られたくない。
どうか、だれも、知らないでいて。
放課後。長い廊下を美術室へと歩いて行く。左の窓から差す西日が私の影を斜めに長めに作る。影は私よりもノッポで、頭も腕も胴も脚も長い。ぶかっこうで変てこ。私と離れずに歩く。角を曲がると西日が切れて、影が消えた。
日曜の朝。遥と五文字しりとりをしながら『パン屋大福』へ行く。
「あっ。新しい味だ」
遥の視線の先に抹茶クリームパンが他のパンたちと同じように大福の形をして並んでいた。
遥はおでこに人差し指をあてて真面目な顔で抹茶クリームパンを見つめていた。
遥の髪は天然パーマで、太陽に透かすと紅茶色に眩しく反射する。それがアーモンドの形をした目によく似合う。
大福パンを五つ、レジへと運ぶ。パンたちはまるで五つ子みたい。みんな同じ大福の形だ。全部つぶあんぱんのように見えるし、全部マーマレードパンのように見える。この中に抹茶クリームパンがあるのかも、わからない。でも、みんな違う味。みんな違う。
パン屋の主人が半紙のような紙でやわらかくパンを包んでいく。そのひとつひとつに『つぶあん』とか『マーマレード』とかシールを貼ってくれる。主人にはパンの中身がわかるのだ。
「これは、おまけ」
そう言って、パン屋の主人が千歳飴を二本くれた。
その夜。千歳飴をなめながら、遥と私は二段ベッドのそれぞれの布団に寝転がっていた。妹が上の段で、私は下の段。はじめは私が上の段で眠っていたけれど、しばしばベッドから落っこちるので妹が上の段で眠ることになった。
千歳飴は濃厚なミルクの味がする。なんだか、おっぱいを連想する。おっぱいのミルク味は、とうに忘れてしまったのに。遥が小学校に入学した頃、お母さんと遥と私の三人でお風呂に入っていたとき、ふざけてお母さんのおっぱいをむぎゅっとしたらピューーって乳が出たことがあった。私はお母さんのおっぱいの丸みが好きで。おっぱい。おっぱい。私のおっぱいはちっともふくらまない。おっぱい。おっぱい……。
そうして、私は眠りに落ちた。
目が覚めると悲劇が待っていた。
どうも頭がミルクの匂い。髪が引っぱられる感じがして、いやぁぁぁな予感と鏡を覗き込んだ。
なんてことだろう。私の髪が千歳飴にべっとりと巻きついている。
「遥―っ遥―っ遥―っ」
妹が眠そうに、けだるく現れた。天然パーマの髪をモシャモシャのクルンクルンにしたまま、私の頭を見て「げっ」と言った。
それから遥と私は色んな方法を試した。お湯で千歳飴を溶かそうとしたり、シャンプーで泡だらけにしたり、オリーブオイルを垂らしてみたり。それらの奮闘むなしく、千歳飴と私の髪はもっともっと一体化していった。
とうとう遥が低い声で言った。
「切るしかないわ」
「そんなー」
「後ろ髪は無事みたいだから前髪を切ろう。切るしかない」
「そんなー」
私は情けなくて泣きたくなった。前髪を伸ばして伸ばして、やっと後ろ髪と一緒にそよぐ長さになったのに。
「そんなー」
妹は顔をフリフリすると、容赦ない潔さで前髪を真っすぐに切った。
はぁー。
鏡に映った私はひどく心細い顔で幼く見えた。
自分のおっちょこちょいさにうなだれた。前髪を作った理由が千歳飴だなんて、妹以外に知られたくない。
どうか、だれも、知らないでいて。
まゆげに沿って真っすぐ切った前髪は、風に吹かれる度にふわりふわりとなった。
黒板をスタッカートに走るチョークの音がする。先生の問いに教科書の文字を追っても頭をただ流れていく。私は前髪ばかり気になる。風にからかわれているようで、またうなだれて、机に顔をうつぶせた。
机の板にほっぺを当てて耳を澄ませると、誰かがコンクリートの階段を駆け上がっていくようなカンっカンっカンっカンって音が聞こえた。
眠いなー。
眠気に誘われそうな頭をムフっと起こすと、教室中を見回した。
んー。ん?
斜め後ろの席の男子と目が合った。
後藤……か。
後藤はナゼか、さっと目をそらした。
何だい。私が何をした。
後藤はめがねの奥でまばたきをパシパシすると、黒板をにらみつけ、すごい勢いでノートを取り始めた。
風に乗っかった日差しが後藤のめがねをキランっとキラめかせた。
後藤の分厚いレンズのめがねは見えないものが見えそうな気がする。でも言えない。「かけさせて」なんて。
はぁー。眠い。
私も黒板を見ることにした。そよそよと風が吹いて、私の前髪をまたふわりと触った。
放課後。四角いバケツにパレットだの絵の具だの筆だのを突っ込んで美術室へ向かう。
左から差し込む西日。私と離れない長い影。廊下の曲がり角。静かな階段。旧校舎の軋む床。
昨日と同じような今日を歩いているようで、ときどき立ち止まりたくなる。昨日と今日と明日がごちゃごちゃになったら未知の空間が現れるのかな。例えば、赤色と白色を交ぜると淡いピンク色が現れるみたいに。時間は不思議だ。速い一分と遅い一分がある。それで、ほど好い時間を調節しているのかもしれない。
美術室の壁は絵の具の匂いが染み込んでいた。裏庭を挟んで真向かいの音楽室から合唱部の歌声が届く。ソプラノ。アルト。追いかけるテノール。
美術室には、まだ誰もいなかった。私は机をガタガタ引っぱって窓のそばへくっつけると、四角いバケツを置いて、裏庭を覗き込んだ。
裏庭では科学部の人たちが何かの実験をしていた。円くなって、しゃがんで。時間を計る人。表に書きつける人。試験管の液体を白い物体に垂らす人。それぞれがそれぞれの役割を果たしていた。「おぉー」「キターー」と興奮気味な声がきこえる。
なんだか、楽しそう。科学部の人たちにしか解らない楽しさで秘密めいていて、それがうらやましかった。
私は顔を引っ込めると、四角いバケツに水を入れようと席を立った。
私の絵には、キーラという名の少女が登場する。キーラは時空を旅する設定で色んな時代の色んな国を背景に、当たり前の顔をして現れる。
ヴィクトリア時代のバターたっぷりなマフィンに満足気なキーラ。紫式部の重そうな着物をめくるキーラ。マリー・アントワネットの髪型を眺めながらワインをがぶ飲みするキーラ。バロック時代のバッハと連弾するキーラ。
私が行ってみたい場所へキーラは旅する。時空を越え、国を越え、不思議を越えて。
図書室から資料を借りてきて、細かな部分を絵にしていると、キーラの視界で絵の世界に存在している私を見つける。
指先やまぶたがスーっとして感覚もひそやかで。絵の世界はあまりに魅力的で、現実が霞みそうになる。
あ。イケナイ。
私は大胆に深呼吸して、現実へ浮上する。美術室の机をひんやりと確かめると、ほんの少し淋しくて、同じくらい安心するのだ。
キーラは私が作った世界の登場人物だ。そのはずなのに。時として、私がキーラの想像世界を生きているような気がする。
あやふやな輪郭しか持たない、ぞぞぞっとしたものに怖じける私がいる。他人には、これっぽっちも、知られたくない。
どうか、だれも、知らないでいて。
家に帰ると、妹が生放送の歌番組を見ていた。テレビ画面には歌い踊るアイドルたちがキラキラと映っている。
遥は真顔でテレビを見つめていた。
「このアイドルたち、好きなの?」
「ファンなの。ノッコが一番好き」
「そうなの……」
知らなかった。妹が歌番組をよく見てるのは知ってたけど、好きなアイドルがいたなんて。
私は、真顔でテレビを見つめる遥を見ていた。ファンと言うほどだから、一瞬たりとも見逃すまいとして真顔なのだろうか。
「その、ノッコてのは、どの子なの?」
「ん……ほら今、右の。あっ消えた。あっ。真ん中の後ろの。あっ消えた」
それから遥はどうにか私にノッコを教えようとしたけれど、私にはみんな同じ衣装に見えるし、画面はぱっぱか切り替わるしで、ノッコがわかったようなわからないような。
「もう、いいよ。あとで写真集見せるよ」
妹は呆れたように顔をフリフリした。
それにしても、アイドルたちはキラキラとパワフルだった。
アイドルたちにも白ニキビはできるのだろうか。
知られたくないほどの嫉妬や何かそういったものをキラキラの後ろに秘めているのだろうか。
知られたくないことのひとつやふたつやもっと。みんな持ってる。きっと。
真顔でテレビを見つめる妹にもあるのかもしれない。それは見知った他人のようで、少しドキリとした。
夢を見た。
担任の前田先生がシェークスピアの『ロミオとジュリエット』を情熱的に音読しながら黒板にその一節を書いていた。
前田先生はナゼか私たちと同じ制服を着ていた。それが妙に艶めかしく色っぽい。
黒板にチョークを走らせる先生の後ろ姿。制服の白いシャツを透けてブラジャーの線が見えた。
前田先生が「なぜ、あなたはロミオなの!」と叫んだところで目が覚めた。
私は布団の中でパジャマの上から自分の胸を触った。私のおっぱいは小さい。と言うより、ひらべったい。そして、秘密の秘密だけど生理もまだきてない。
私はむっくりと起きた。上のベッドから妹の寝息がきこえる。
そろりそろりと窓へ近づき、カーテンと窓の間に体を入れると、半分ほど窓を開けた。
朝焼けが厳かに広がっていた。空に溶けそうな水色が地上に近づくほど濃くなり、だんだんとオレンジ色を帯びて、屋根に、地面に、降り注いでいた。
私は目を細めて、朝焼けの芯を見ようとした。心臓がトックントックンと静かに刻む。
「大丈夫よ」
それだけ、小さく、私に言ってあげた。
シンシンと寒い朝。町が起き出して、また新しい今日が始まる。
二段ベッドの梯子をみしみしと妹のベッドを覗いた。
遥は天然パーマのくりんくりんに顔を埋めて、ぐっすり眠ってるようだった。そっと、指先で、天然パーマのくりんくりんを遥の耳にかけた。
白ニキビひとつない肌がぷるりんと現れる。
「起きなよー。朝よー」
起こす気がないような私の声。
視線を部屋へ落とすと、妹の勉強机に置いてあるカレンダーには六日続けてピンク色で印がつけてあった。そのピンク色の印が何を意味するか、私は知っていた。妹が知られたくなくても自然と知ってしまった生理の印。
妹なのにさ。
私のほっぺがひねくれてグチった。
冷血人間。冷血人間。冷血人間。
学校へ行く道、冬の空気にほっぺを冷やされながら、私は自分をいじめていた。
心が、ただ、ヒリヒリした。
笑えない朝。渋い顔のまま凍っちゃいそうだった。
校庭で朝練をしている野球部を横目に、廊下を早足で歩いて教室へ入った。教室の後ろにあるストーブを誰かがひとりじめしていた。
後藤だった。
後藤は背中を丸めて、心地よさそうに両手をストーブにかざしていた。そこだけ、ぬっくりぬっくり、のんびりのんびり時間が流れているみたい。
私は、そろりそろり近づいた。
後藤があまりに静かにひっそり暖まっているものだから、眠っているのだと思った。でも、後藤のめがねは真っ白に曇っていて、目を開けているのか、閉じているのか、わからなかった。
後藤の真っ白なめがねは冬の朝の寒さそのものだった。天気予報の気温よりも、白い息よりも、冬のシンシンとした寒さを現していた。
「後藤君のめがね真っ白」
事実を言ってみたら、後藤の耳がボっと紅くなったけど、やはり真っ白なレンズの奥は見えなくて、目を開けているのか、閉じているのか、わからなかった。
真っ白なめがねと後藤の紅い肌が紅白のようで、めでたくて、私は思わず、ほんとに思わず笑ってしまった。
私の身体のどこか、カチコチと凍っていた部分がじんわりとほぐれた気がした。
後藤に「ありがとう」って言いたかったけど、なんだか照れて、ただそこに座ったままでいた。
授業が始まるまで後藤とストーブに両手をかざしていた。