チェコにも強制収容所があるーテレジーン
いわゆる「強制収容所」と聞けば、「アウシュヴィッツ」と発想する人も多いだろう。私も実際、ポーランドのアウシュヴィッツでのツアーにも参加したことがある。
小学生の頃、家族旅行で沖縄のひめゆりの塔に行って以来、戦災を経験している場所にはよく足を運ぶようになった。ヨーロッパの国には、いくつかの強制収容所があり、チェコにもテレジーンという街にテレジーン要塞がある。
テレジーンという街は、第二次世界対戦時にチェコがナチスドイツに占領された後、ユダヤ人ゲットー収容所として姿を変えさせられていった。プラハからほど近い場所にあり、観光客も比較的多い。
テレジーンの歴史
第二次大戦時、この街はナチスドイツに占領され強制収容所が設置された。戦局が進むにつれ、元々の住民は追い出され、街全体がユダヤ人ゲットーの街とされるようになっていったのだ。ここにはガス室こそなかったものの、他の収容所にうつされる前の中継地点として、あるいは選別して殺害するため、そしてナチスドイツがユダヤ人自治移住地を設立しているという見せかけの宣伝材料としての機能を果たす場となったそう。
実情はひどいもので、移送中の死亡者も多く、特に戦争後期には収容所には多くの人がすし詰め状態にされ、病気も蔓延した。他の収容所から重病患者や衰弱死寸前の囚人が運び込まれることも多く、チフスも持ち込まれ戦後も多数の犠牲者が出た。
しかしテレジーンでは、街のなか、寮のなか、厳しい管理体制をしかれるなかでもこっそりと、屋根裏部屋などで演劇を上演したり子供たちに絵や勉強を教えた先生がいた。音楽家、演劇人、教師、スポーツ選手など、多方面に才のある人たちが押し込められたこの場所で、表現活動を続けたり、子供たちになにかを伝えようとしたのだった。文化は収容者にとっての希望の光であり支えだったようにみえる。
悲惨な歴史を持つ街でありながら、文化というものに支えられてこの街で生きた人たちの力強さも、様々な形で感じることができた。私にとってはすごく印象深い街だ。
テレジーンへの行き方
テレジーンはプラハからバスで1時間弱で行ける。
まず、鉄道で「Nádraží Holešovice(ホレショヴィツェ)」駅へ向かう。
ホレショヴィツェ駅は地下鉄のC線またはトラムでも行くことができる。そしてホレショヴィツェ駅からバスに乗り換え。乗るバスは乗り換え案内でリサーチしておく。
出発地: Nádraží Holešovice
到着地: Terezín, U památníku
*上記乗り換え案内でそれぞれの地名をコピー&ペーストしよう。
ホレショヴィツェからテレジーンも直行バスがあるので、「PREVIOUS」「NEXT」を前後させて直行する便を探す。約1時間でテレジーンに到着できる。片道90コルナほど、車内で支払う仕組みなので現金を手元に用意しておく。行き方はこちらのブログにかなり詳しく書いてありました。
バス停は「Terezín,aut.nádr.」と「Terezín, U památníku」の2つあり、どちらで降りても良いが、「Terezín, U památníku」で降りるほうが効率が良さそうだ。
おすすめルート・旅程
一番効率のいい回り方は下記のようだ。
バス停「Terezín, U památníku」にて下車
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小要塞にて共通チケットを購入
小要塞を見学(時間が合えばガイドツアーに参加、ただし日本語はない):30分〜1時間
※記憶が定かではないが、小要塞かゲットー資料館のどちらかで日本語の簡単なガイドがもらえた。
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大要塞へ移動、街全体を見学:50分
敷地内の複数施設を見学する場合は1〜2時間ほどあると良い
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ゲットー資料館を見学:1時間
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バス停「Terezín,aut.nádr.」
小要塞・ゲットー資料館は時期により、それぞれに開館時間が異なるので注意。チェコはだいたい11月から3月くらいが冬季になり、地方都市によっては週末しかあけないなど縮小営業になる施設やお城なども多い。
*テレジーン内にはその他に見学できる施設もさまざまある。全体を網羅するツアーも多数開催しているので興味ある方はこちらから。(英語サイト)
テレジーン小要塞
小要塞の入り口には慰霊碑がならぶ。
入り口で共通チケットを購入。小要塞はいわゆる強制収容所を思わせる、目的を持って建てられた施設だ。
ベッドは、番号の通り、ここに縦に並んで寝ていたという。
これは水しか出ないシャワーで、洗うためではなく罰を与えるために使われていたもの。
赤十字社の視察に向けて整備された見せかけの洗面所。しかし実際に使用されることはなかった。
テレジーン大要塞は、一見ふつうの街のよう
川をはさんで大要塞と小要塞と呼ばれるそれぞれの地区に分かれている。
橋をわたった先、ものものしいトンネルをくぐった先に大要塞が見える。
これがテレジーン大要塞。え、どれが「大要塞」?と思ったが、ここの大要塞は街の一部エリア全体をさしている。強制収容所=アウシュヴィッツのイメージでいくと、やや拍子抜けするくらい普通の街に見えてしまう。
ゲットー資料館ー文化に支えられた人々のたくましい軌跡
ゲットー資料館はさまざまに印象的な資料が残されているが、中でも印象深かったのはこれ。男子寮のなかで、13~6歳くらいの男の子達が約1年半、毎週(!)こっそり雑誌を発行していたというからすごい。それが「VEDEM」だ。
全800ページにも及んだその内容は多岐にわたり、寮のなかでの出来事を面白おかしく書いたり、政治的批判を含めた社説を書いたり、テレジンへ移送された経緯のルポ、スポーツイベントのルポ、世界の偉人たちの紹介、悲痛な叫びを含む詩…。挿絵もある。知識も才能も情熱もあった少年たちが一人一人自分の言葉で書いたものから、彼らの生活状況や心情を垣間見ることができ、そしてこれを発行することが心の拠り所やはけ口になってもいたのだということをもつよく感じる。
収容者が残した絵もたくさん残されている。
秘密裏に絵画教室を開いていた先生の存在があったおかげで、子どもたちの描いた絵はたくさん残されたが、多くの子どもたちは亡くなった。
彼らの描く絵は、極めてシンプルで。目の前の景色や、かつて見ていた景色、すぐそこにあるもの、全てを上手く描こうとなんてしていない。ただ手を動かすことが楽しい、あるいは目の前のものをただ描いている、楽しかった日々を思い返している、希望を探している、あるいは絶望しか見えない。そんな視点のようにみえた。
テレジーンという街の存在は、恥ずかしながら2015年にチェコを訪れた時に初めて知った。世界にはアウシュヴィッツ以外の強制収容所が本当にたくさんあることはなんとなく知りつつも、ここのことはチェコに来なかったら知らないままだったかもしれない。
テレジーンの子どもたちの絵はプラハでも見られるーピンカス・シナゴーグ
半日あれば十分まわれるテレジーン。それでもテレジーンまで行く日程がない、という方は、プラハのユダヤ人街にある「ピンカス・シナゴーグ」の2階でもテレジーンの子どもたちの絵をみることができる。私がテレジーンを知ったのはその場所だった。
過去に終わったことだと思わない想像力を培いたい
以前、アウシュヴィッツを訪れた際、そこで見た果てしない絶望的な景色にとにかく愕然とした。ショックを受けつつもまたすぐにお腹は空くし、夜は暖かいベッドでぐっすり眠ったわけで。私の想像力はいつだって乏しい。かといって今夜はマットレスもない木の板で寝てみようとは思わない。だけど生活のなかでふとしたときに、見てきた風景を思い出して、自分なりにまたあの場にいた人のことを想像してみようとする。そのとき「償い」のような気持ちが心をよぎるのは何故なのだろう、本当におこがましい。それでも一度見てきたんだから、見なかったふりをするよりはましなんじゃないかとは思う。
アウシュヴィッツで、人々が持ち込んだ限られた荷物や衣服や髪の毛などがあった展示室を見たとき、あまりにも膨大であったそれは、もう一人一人のものではなく、「回収物」として私は見てしまっていた。
テレジーンを訪れた夜もビールを飲んだし、あたたかいベッドでぐっすり眠った。ただテレジーンという小さな街に詰め込まれた人々が必死に残したものたち、それらの息遣いを感じ取りたくてそこへ行ったのだ。せめてまた彼らの残した言葉を読み返して、すぐ忘れてしまう乏しい記憶力と想像力を補おうとしている。
決して他人事じゃないし、これは過去の話、ではないのだよなあ。