見出し画像

bouquet toss


私は、綺麗事が苦手だ。


失恋した時も綺麗な言葉で綴られたバラードより乱暴に自分の気持ちを表すロックを聞いていたし、ピアノを習っても吹奏楽をしていても心を揺さぶる音楽に巡り会えたことはほぼ無い。

他人の生み出した音楽に励まされるなんて、なんて綺麗事なんだろうとむしろしらけてしまうから。


そんな私は数日前、ひとつの音楽との出逢いで嗚咽するほど泣くことになる。



ここからは少しだけ、私の話をさせてほしい。

私は今2歳の男の子を育てる主婦をしている。

出産する以前は医療現場で働いており、その毎日が大変ではあれど誰かに感謝され家族以外の繋がりもあることで「自分は働くのが向いているな」と思っていた。

完全に仕事をやめて2度の引っ越し、コロナが重なりいまだに私は専業主婦として生活しているが、その毎日は想像以上に苦痛だった。

世間では“魔の2歳児”と呼ばれる時期、コロナで自由に外出もできず家では一日中我儘を言い泣き叫ぶ息子と耳を塞ぎトイレで泣き続ける私。

いくら頑張ったってお給料は出ないし、世間では「母なんだから」「主婦させてもらってるくせに」なんて言葉が平気で飛び交う。気付けば心療内科に助けを求めていた。


大袈裟ではなく毎日が地獄。


その状況が今変わったのかと聞かれると、そんなことはない。忙しなく家事と育児に追われ、余裕など微塵もない日々だ。



それでも、私にひとつの救いができた。


それは、毎週楽しみに見ているオーディション番組で披露された一曲だった。

『花束のかわりにメロディーを』

このグループには私が応援している仲村冬馬くんがいたこともあり注目して見ていたが、推し贔屓など超越した感動のステージだった。


オレンジ色のあたたかなライトとまるで彼等の優しさを体現するかのようなオフホワイトの衣装を纏った4人の紡ぎ出した歌は、一瞬にして私の心の泥水を掬い取った。

あの3分間、涙が流れている事に気づかないほど気持ちを吸い込まれた私は、無意識に「ありがとう」と呟いていた。



互いを尊敬し愛し合ったチームだからこそ、彼ら個人個人の抱えるジレンマは大きかっただろう。


わたしが応援する彼は相手に寄り添い人を愛する天才なのかもしれないけれど、何度自分の気持ちを犠牲にしたのだろう。

票数に、順位に、ポジションに、いつも悔しさを隠しきれない表情で隣の仲間に拍手を贈る彼は、私たちの見えないところで何度悔し涙を流したのだろう。

カメラの前でいつも語る、「聖人」ような言葉は自分に言い聞かせていることもあったかもしれない。


争い事を好まず、其々に情熱を秘めた彼らが互いの知らない場所で流した涙はいくつあっただろう。


今回のポジション評価はどれだけ素晴らしいステージを作り上げても、グループとしてのベネフィットはないのだ。

グループで1人しか勝ち取れない個人ベネフィットを得る為に、心の中では我こそがと順位にしがみついているはずだった。それでもその葛藤を感じない程に確かな絆を感じる彼らのステージは、あまりに美しかった。



そして彼はステージの後、こう続けたという。


「自分に正直に、心を大切に、自分を愛して、そんな気持ちでこの曲に向き合いました。皆さんも自分をたくさん愛してください。」



このレポートが書かれたツイートを見て、思わずぼろぼろと涙が溢れた。


自己愛なんてとっくの昔に捨ててしまった。

母親になってから、無意識に自分のための人生は諦めなくてはいけないと思っていた。自分を愛することは放棄して世間の「母親像」に馴染まなくてはと必死だった。


都合の良い解釈にはなるが、まるで私に向けて「自分の人生をちゃんと許していいんだよ」そう私自身をまるっとハグしてくれているようなしあわせに包まれた。


この曲にはどんな人も肯定する力があって、彼の言葉にはそれを裏付けるような説得力を感じるのだ。


それが“綺麗事”だっていいじゃないか。

そんな風に、少しだけ自分を肯定してあげられる自分になった気がする。




遠く離れた国からたった1人で帆を張る彼が母国の両親を想い贈ったメロディーは、たっぷりの愛と幸せの花束となりたしかに多くの人の心を溶かしている。



私を暗闇から救ってくれる彼らに恩返しをするには、今は毎日地道に票を投じることしかできないことがもどかしいけれど


次は私から、感謝の花束を贈るために。



いいなと思ったら応援しよう!