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クソみたいな思い出は何度も嗅ぎたくなる。

成功体験や楽しかった思い出は自分の行動に勇気を与え、失敗に終わった結果や悔しい気持ちもエネルギーとなる。

では「クソみたいな思い出」はどうだろうか?


「クソみたいな思い出」とは何も生み出さなかった生産性のない行動の記憶である。
私の記憶では仕事の外回り営業が終わってサミットの立体駐車場に営業車車を停めて昼寝をして、起き抜けにサミットでお茶を買いに行くというものが例に挙げられる。
もちろん車内にはradikoタイムフリーで聴ける深夜ラジオが流れている。
仕事中という時間帯に置いて車・ラジオ・立体駐車場の組み合わせは言うまでもなく至高である。

昼寝から目覚めて喉が渇いているので駐車場からサミットへ降りて行く。
社用携帯には誰からも着信がない。
最高だ。
気づけばもう夕方で店内の外は薄暗く夕飯の買い出しをする主婦で店内は賑わっている。
お目当てのお茶を手に取りレジへ向かうがもし疲れていたらめちゃくちゃ安い和菓子を、そしてもしいい感じにお腹が減っていたら惣菜コーナーのたこ焼きを空いている手に取り会計へ進む。

駐車場に戻るとなんだかんだで16時を過ぎていることが多かった。
特に忙しいわけでもないが16時半くらいに社内へ戻らないと定時を過ぎることが多くなる。

「帰りますか」と呟き運転席に座るが
「まあいっか」と呟きシートを倒してYouTubeを開く。
そして16時半をすぎる頃にエンジンをかけ、ラジオの続きを流してすっかり陽が落ちて暗くなった道を颯爽と走り抜ける。


最高にクソみたいな思い出である。

そんなクソみたいな思い出は香ばしい。

こんなクソみたいな過ごし方一生したくないと思いその環境から飛び出したのに、ふと思い出すクソエピソードにしんみりとしてしまうことがある。

社会に出ている当時24歳の男としては恥ずかしくてとても人に話せることではないけれど臭いものはあえて嗅ぎたくなるあの感じと近いものがある。


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