文学ができる現場に立ち会える一作!今年読んだ本でベスト1位!~アトウッド『獄中シェイクスピア劇団』書評 魅力の紹介~
本物の役を演じる者が、嘘をつき通しているうちに嘘を真と思いこむように
(『テンペスト』第一幕第二場)
※以後、『テンペスト』の翻訳は、松岡和子訳(2000年,ちくま文庫)
①はじめに
絶海の孤島へと流された先王。彼は妖精を配下に従え、かつて己の玉座を奪い取った弟君とその仲間たちに、魔術を振るい、復讐を遂げんとする…。
イギリス文学の古典中の古典、シェイクスピア『テンペスト』を現代の演劇界に置き換えた、痛快無比、抱腹絶倒の作品。それが、マーガレット・アトウッド『獄中シェイクスピア劇団』である。
マーガレット・アトウッド(著),鴻巣 友季子(訳)
『語りなおしシェイクスピア 1 テンペスト 獄中シェイクスピア劇団 (語りなおしシェイクスピア テンペスト)』2020年,集英社
本作品は、「シェイクスピアの「語りなおし」をコンセプトとし、英語圏の作家たちがそれぞれ選んだ作品を自在に再解釈し、本案している」(訳者あとがきより)という、「語りなおしシェイクスピアシリーズ」の邦訳第一作目である。
古典作品を、当代の作家がかたりなおす。その試みはこれまで数多くの作家と作品によってなされてきたが、これほど見事な作品はない。
まず、文句なく面白い。約350ページと決して短くはないが、仕事の合間を縫って、二晩で読み切ってしまった。ハリウッドに代表されるような読者(観客)を引きつけて飽きさせない工夫が随所に凝らされているため、読者は安心して物語の海に身をゆだねることができる。
もう一つ。この作品は、一人の作家が、語り直すために、古典を読み、解釈するという、その現場に立ち会うことができるのだ。それは、いわば作品の稽古場であり舞台裏だから、我々はふつう見ることができない。だが、本作品ではその下準備と稽古が、作品として仕上げられているのだ。結果として、最良の文学読解の手引きとして仕上がっているし、なぜ文学を読むのか、どう読むのかという、大きな問いに対する一つの正解を直観させてくれる。
昨今のコロナ禍では、なにが不要不急なのかという極めて一面的で一方的な尺度によって、社会の様々なものに優劣がつけられている。その中でも文学(書店や図書館)や演劇(劇場)、学問(大学)は常に制限をかけられ、その社会的な要請がさらにまたそれらの劣位を決定づけている。
この作品を読むことで、純粋に物語を楽しむ喜びを味わいながら、それと同時に、物語の持つしなやかで圧倒的な力に想いを馳せられるだろう。
以下、その魅力について、感じたことを覚書程度に記しておきたいと思う。(今回は、その魅力の外形を紹介し、考察するのが趣旨なので、内容の解釈についてはまた改めてまとめたいと思う。)
②作者・訳者
作者は、ノーベル文学賞候補の常連と名高い、カナダの詩人・作家マーガレット・アトウッド。『侍女の物語』や『昏き目の暗殺者』など、ベストセラーも数多く、そのストーリーテリングには定評があるほか、詩的でたくみな文体も評価が高い。また、『サバイバル―現代カナダ文学入門』や『負債と報い 豊かさの影』に代表されるように、批評眼にも定評がある。そんなストーリーテラー、言葉の魔術師、批評家という三人のアトウッドが、見事に手を取り合い、できあがったのが本作である。
訳者は、今を時めく英語翻訳者の鴻巣友季子さん。ほぼ同時期に、同じくアトウッド『誓願』の翻訳も上梓されており、その活躍ぶりには一外文ファンとして頭を垂れる思いである。若者語から言葉遊び、韻文の訳はもちろん、シェイクスピアの言葉を多彩に移し替えられた見事な訳業で、その訳文の巧みさはたちまちに了解されるだろう。詳しくは、次回の解釈編に譲りたい。
③あらすじ
簡単にあらすじを紹介しよう。
まずは、『テンペスト』(以後、原作)。
ミラノ大公アントーニオ、ナポリ王アロンゾ―たちを乗せた船が大嵐に遭い、彼らは近くにある孤島へと漂着する。
その嵐を仕組んだのは、前ミラノ大公プロスペロー。かつて大公だった頃に、学問や魔術の研究にいそしみ、政務を弟アントーニオに任せていたために、アントーニオの姦計によって、娘ミランダとともにこの島に流されていた。プロスペローは、妖精エアリアル、島に住んでいた野蛮人キャリバンを配下に従え、ミランダとともに暮らしていたが、ある日近くを仇敵である弟たちが島の近くを航行すると知り、エアリアルに命じて、嵐を起こさせたのだった。
島に流れ着いた者の中で、一人漂着したのはナポリ王の息子ファーディナンドだった。プロスペローの巧みな計算とエアリアルの魔法により、彼はプロスペローの娘ミランダと恋に落ち、恋人となる。
島の別に一角に流れ着いたのは、アントーニオ、ナポリ王アロンゾー、そしてアロンゾーの弟であるセバスチャンたち。島から生きて脱出することを願う一行だが、アントーニオにはそんな危機的状況にあっても、更なる権力のために、セバスチャンと結託して、アロンゾーを殺すことを企む。
また、更に島の別の一角では、プロスペローの奴隷としてこき使われている野蛮人キャリバンが、アントーニオたちの給仕人と道化と出会う。彼ら三人は結託してプロスペローを殺害し、島を乗っ取ることを企む。
だが、いずれの計画もプロスペローに看破され、彼らはエアリアルの魔法により幻覚を見、行いを反省するにいたる。その様子を見たプロスペローは彼らを許し、ともに国へと戻ることになるのだった。
続いて、『獄中シェイクスピア劇団』(以後、本作)のあらすじ。
フェリックスはシェイクスピア劇を手掛ける芸術監督である。だが、妻と幼い娘ミランダを立て続けに亡くし、失意のどん底に落ちてしまう。それを忘れるために、大作『テンペスト』の演出を始めるが、あまりに壮大な演出を行い、そればかりか事務仕事をアシスタントのアントニーにまかせっきりにしていた。
だが、ある日、アントニーのたくらみにより、フェリックスは芸術監督の地位を追放されてしまう。無職となった彼は一人寂しく、田舎へと引っ越す。
それから9年後、フェリックスの後任にはアントニーがおさまり、彼は着実に地位をあげていった。そんなアントニーの様子を苦々しく思いながら、彼はある職を得る。その職とは、犯罪者たちの更生プログラムである。演劇を通じて、犯罪者たちの更生を促すというもので、フェリックスは偽名を用いて、その教師に就任。彼は犯罪者たちとともに、演劇をつくるようになるのだ。
そんなある日、アントニーたちが視察に来ることを知ったフェリックスは、演劇を利用した復讐を計画するようになる…。
本作については、ネタバレも加味して中盤あたりで止めているが、紹介した箇所だけでも、設定や時代感といった外形を除けば、相当にパラレルな構造になっていることが理解されるだろう。
つまり、その構造やキャラクター造形は原作から借り受け、設定や時代感といった外形は現代に移し替えている。それこそが「語りなおし」なのである。
そのため、原作を知っていれば、こうやってなぞってきたか!とか反対に、こうズラしてきたか!といった差異を楽しむことができる。ぜひ、原作を一読してから本作の世界に踏み込んでいただきたい。(本書の巻末には、アトウッドによる丁寧なあらすじも付されているので、それに目を通すだけでも十分楽しめるだろう。)
さて、以上のあらすじ対照で、基本的な作品コンセプトはおわかりいただけたかと思う。
以下に、あらすじからはこぼれてしまった多面的な魅力について、一つずつご紹介していきたいと思う。
④物語として抜群に面白い~王道なストーリー展開~
私の初読の感想は、文句なしに面白い!であった。
その要因は、本文章で書いている様々な要素が複層的に重なっているからに他ならないが、一番はその構成だと考えている。話の構成が実にうまいのだ。
どうすれば読者が物語にノッて、惹き込まれていくか、それが見事に計算されている。よくハリウッド式などと言われる三幕構造など、面白い物語の構造には、ルールがある(と言われている。)。創作を定式化することについては、賛否両論があるし、全部が全部それをなぞったらさぞ退屈だろうとは思う。しかし、普段ゲームのシナリオライターをしている実感としては、そういった基本はやはり、強い。 そして本作も、その例に漏れない。
今回は、『仁義なき戦い』シリーズなどを手掛け、日本アカデミー賞優秀脚本賞を受賞した脚本家・笠原和夫による「秘伝 シナリオ骨法十箇条」(『映画はやくざなり』(2003年,新潮社 所収)という、シナリオ作法を参考に、いかにうまい構成がなされているかを少し見てみよう。(この論は、映画シナリオを意図されて記されたものだが、十分小説にも当てはまる。むしろ、アトウッドが多分に映画的な起伏を想定しているのではないかと考えている。)
この本では、「骨法」と銘打たれた、シナリオ作法の極意が十個紹介される。まず、その第一の骨法を参考に、本作になぜ惹き込まれてしまうのか考えてみよう。
骨法その一。「コロガリ」
これからなにが始まるかと客の胸をワクワクさせ(中略)最後はキチツと収斂させて大空高く凧が舞い上がる、という展開の妙をいう。
「コロガリ」の一番大事な点はトッパナの糸の引き出し方にある。つまり、なんの話か、ということを端的に示唆しなければならない。不自然な展開や御都合主義による話の運び、あるいは脇の筋に深入りした場合は「コロガリが悪い」と評される。
つまり、物語の幕が開けたら、どんな物語なのかを、早々に視聴者(読者)に示せ!ということだ。
最近では、幕が開けて早々どころか、幕が開ける前からどんな物語を知ることが求められている。だからこそ、映画のCMや広告、本の帯や背表紙には、一体どんな物語が展開するのかが凝縮されているのだ。
その是非はともかく、実際我々は一体どんな物語になるのかがなかなかわからないと、不安に包まれる。この人物はいったいどんなやつなのか、一体こいつは何をしたいのか、一体どういう展開になっていきそうなのか…。
このように物語の中心となる主人公が求める対象を、シナリオ用語で「セントラルクエスチョン」と呼ぶ。(『桃太郎』なら、鬼を退治することだ。)
この「セントラルクエスチョン」がなかなか判然としない物語には入り込みにくい。実際、全部が全部とは言わないが、名作と呼ばれる作品の多くは、セントラルクエスチョンが提示されるのが早く、最後までぶれない。
特に映画と漫画はそれが顕著である。
たとえば『七人の侍』の冒頭では、村が野武士に襲われ、村を守る必要があることが示される。(余談だが、冒頭が村人ではじまり、最後も村人たちの祭で幕を閉じるという構成から、徹頭徹尾、物語の主役は村人であり、侍たちはその手段にすぎないことがよくわかる。)
これを一番徹底したのがジャンプ漫画だ。一巻の一話で、主人公のキャラクターや目的を明確すぎるほどに示す。『ワンピース』ではワンピースを探すこと。『進撃の巨人』では、巨人を倒すこと。『鬼滅の刃』では、家族を殺した鬼を倒すこと。いずれも物語の冒頭からセントラルクエスチョンが示される好例だ。(なお、小説の場合は当てはまらないものが少なくない。特に18世紀以前の小説は、現代の巧みな構成に慣れた読者には退屈に映ることもあるかもしれない。だが、ジェットコースターのようにスピーディに陶酔させてもらえるだけではなく、時には遊覧船的な時間感覚とのんきさも愛おしくなるものだ。)
すっかりわき道にそれてしまった。本作に戻ろう。
本作では、物語が開始した途端から、主人公フェリックスの不穏な様子が語られる。入れ歯が「ぴったりフィットしない」こと。「もはや余興はお終いだ。わが歯畏友(はいゆう)たちは、みな精霊(しぇいれい)。薄(うしゆ)い大気に融けていく」という不可思議な独り言。いずれも、作品の幕開きが順調ではないことを示唆している。(歯を気にするといえば、『アンナ・カレーニナ』のヴロンスキーを思い起こすし、この独り言はさながら柳瀬尚樹による『フィネガンズ・ウェイク』のようだ。)
そんな不穏な空気に彩られながら読み進めていくと、すぐさまその原因が明らかになる。主人公フェリックスは、さる劇場の芸術監督であり、数々の舞台を手掛けてきた。そして、その集大成といえる『テンペスト』の舞台を準備中、事件が起きる。
あの根性曲がりの食えないトニー野郎。もとはと言えば、自分がわるい。およそ自分の失策と言えるだろう。フェリックスはこの十二年間、しきりと自分を責めてきた。
※トニーは、彼のアシスタント。フェリックスが苦手な事務仕事や雑用、関係各所との調整を一手に任せていた。
いよいよ稽古に入ろうというとき、トニーが本性を露わにした。十二年後のいまでも、あの対決のやりとりは一語一句、思いだせる。
「遺憾ながら」と、トニーはすかした声でとうとうこう告げたのだ。「劇場の理事会は投票により、あなたとの契約を打ち切る決定をしました。芸術監督としての契約を」
トニーの裏切りによって、フェリックスは一方的に芸術監督の契約を打ち切られてしまう。彼は抗議をするが、それもむなしく、職を失う。そして、失意の中、田舎に隠れ住むことになる…。
以上が第一章の前半部分だ。ここまでで、「コロガリ」がおおよそ達成されているだけではなく、次に紹介する物語の基本をきちんと満たしている。
骨法その二。「カセ」
主人公に背負わされた運命、宿命、といったものである。
骨法その三。「オタカラ」
主人公にとって、なにものにも代え難く守るべき物(または、獲得すべき物)
骨法その四。「カタキ」
敵役のことである。前条の「オタカラ」を奪おうとする側の者である。
フェリックスが一方的に契約切れを通告された事実。これが「カセ」だ。フェリックスが追い落とされた状況は、やけに生々しく、一部の社会人には背筋に冷たいものが走ったかもしれない。(「会社の本体はむしろ事務にあります。」(東浩紀『ゲンロン戦記』2020年,中公新書ラクレ))
あるいは、彼の境遇に同情したり、ここからどうやって再起していくのだろうと期待に胸を膨らませたりする。
それは同時に、彼が芸術監督という立場を取り戻し、再び劇を手掛けられるという「オタカラ」の存在を巡る物語であることを示唆している。
そして、憎き宿敵(「カタキ」)が明らかになることも重要だ。原作を知っている読者からすれば、このあたりでたちまちに事態は了解できるだろう。展開が類似していることはもちろんのこと、原作でも流刑から物語開始までは十二年の歳月が空いており、ぴたりと符合するためだ。
原作未読の読者も、なぜ主人公フェリックスが劇団から追いやられたか、どれほど復讐に胸をたぎらせているかが語られるため、同様に物語のセントラルクエスチョンが了解されよう。
特に次の箇所が象徴的だ。
自分に残された道は二つだと結論した―自分の心をいまも満足せしめるプロジェクト。
一つ、あの『テンペスト』をとりもどす必要がある。どうにかして、どこかであおの興行をうつのだ。
二つ、復讐をしてやれ。フェリックスは復讐に燃えた。夢にまで見た。トニーとサル(※トニーの相棒)には痛い思いをしてもらう。
つまり、読者は、本書を紐解いてから間もないうちに、この物語の基本的な舞台立てと起きそうな展開とを理解し、主人公が一体どうやってその本懐を達成できるのだろうと見守ることができる。
しかも、人によっては、主人公に自分を重ねて、強い共感を持ちうるだろう。いつの世も、「不当に」追い落とされた人間が、その宿敵を倒そうとするのは痛快だし、見守りたくなるものだ。
⑤折り畳まれた数十年がほころぶ~元ネタがある作品の面白さ~
先述の通り、物語の冒頭で、原作を読んだ読者はもちろん、未読の読者も、きっとフェリックスが紆余曲折を経て、アントニーに復讐を果たすのだろうと予想を立てる。そして、それは概ね正解である。
だが、原作を読んだ読者は筋を知っているために、その復讐が成し遂げられることに対して、もっと確信的だ。だから、その差を味わおうとする。
これで思い出すのは、太宰治『お伽草子』だ。
この小説は、「瘤取りじいさん」「浦島太郎」「カチカチ山」「舌切雀」という四本の昔話の、太宰治による「かたりなおし」である。原作の昔話と筋はほとんど同じで、そこに太宰らしい皮肉やエスプリが効いた作品集である。
問題なのは、その語りについては、読者がこれらの昔話を知っているという体で進められるという点だ。
たとえば、「浦島さん」(「浦島太郎」)で、亀が登場するシーンでは、次のように語られる。
これが、れいの問題の亀である。
「れいの問題の亀」というのは、読者が「浦島太郎」を知っている前提の書き方だ。更に続く。
(亀は)「もし、もし。」と呼び、「無理もねえよ。わかるさ。」と言つた。浦島は驚き、
「なんだ、お前。こなひだ助けてやつた亀ではないか。まだ、こんなところに、うろついてゐたのか。」
これがつまり、子供のなぶる亀を見て、浦島さんは可哀想にと言つて買ひとり海へ放してやつたといふ、あの亀なのである。
「うろついてゐたのか、とは情無い。恨むぜ、若旦那。私は、かう見えても、あなたに御恩がへしをしたくて、あれから毎日毎晩、この浜へ来て若旦那のおいでを待つてゐたのだ。」
(中略)
「いや、もう私は、何も言はん。私のこの甲羅の上に腰かけて下さい。」
浦島は呆れ、
「お前は、まあ、何を言ひ出すのです。私はそんな野蛮な事はきらひです。亀の甲羅に腰かけるなどは、それは狂態と言つてよからう。決して風流の仕草ではない。」
「どうだつていいぢやないか、そんな事は。こつちは、先日のお礼として、これから竜宮城へ御案内しようとしてゐるだけだ。さあ早く私の甲羅に乗つて下さい。」
昔話のほうを知っている我々は、亀がこんな江戸っ子口調であることに笑いを催され、浦島がグズグズ言ってなかなか竜宮城へ行かないことにもどかしい思いをするだろう。
もちろん浦島は結局竜宮城へ行くし、読者もそのことは先刻ご承知である。
つまり、この語り手によって想定されている読者は、物語の展開で楽しむことを期待されてはいない。その語り口や、原作との差異を味わうことが期待されているのだ。
少し学術的な話をすると、物語は、「その物語の内容自体」と「その内容をどう語るか」とに分けられる。(専門的には、前者を「物語内容」、後者を「物語言説」と呼ぶ。)同じ出来事を語るにしても、それをどう語るかは千差万別である。人によっては、現代からの回想っぽく語るかもしれないし、またある人は実況中継風に語るかもしれないし、またある人はその事件とは無関係な第三者の視点から語るかもしれない。
その素材となった出来事を「物語内容」(物語の内容自体のこと)、どう語るかを「物語言説」(物語内容をいかに語るか)というわけだ。
(詳しくは、菅原克也『小説のしくみ』(2017年,東京大学出版)を参照していただきたい。『お伽草子』にまつわる解釈も、本書に大部分を依っている。)
物語言説の中でも大事なのが「因果関係」である。
出来事Aが起きて、その後に、出来事Bが起きる(たとえば、少女がさらわれた。そして、少年は旅に出た。)という一連の事件があるとする。これをただ並置するだけではなく、このAとBに因果関係を持たせるとどうだろう。Aが起きた。だから、Bが起きたという具体だ。(先の例で言うと、少女がさらわれた。その少女を助けるために、少年は旅に出た。)
こうすることで、ただの出来事の並置が、プロットとなるのだ。
『お伽草子』では、この因果関係を太宰独自の筆さばきで見事に改変した結果、近代小説として新たな息吹を得たのだ。
つまり、多くの「かたりなおし」ものの、肝は「物語言説」の改変にあり、特に因果関係をどう味付けするかに、一つの肝がある。
さて、本作に戻ろう。
本作は、『お伽草子』に比べれば、「物語内容」も含めて大幅に改変されている。だから、原作を読んだ読者も、必ずしもその展開に期待しないわけではない。しかし、それでもおおよその展開(物語内容)は予想している。というか、未読の読者ですら、少し勘がよければ、このセットアップの段階で先の展開を読むことができるはずである。
というわけで、敢えて「物語言説(語り方)」にだけ着目してみよう。
まず、「物語言説」の大きな差は、ジャンルの違いに由来する。原作は戯曲であり、本作は(一部を除いて)散文である。戯曲が、ト書きなど一部を除いて、台詞だけで構成される以上、その物語言説は、おのずとその語り口も変わらざるをえない。
戯曲は、舞台芸術という制約から、場所や時間が限定されることが多い。(これが法則化されたのが、「三一致の法則」である。)
実際、『テンペスト』で描かれるのは、ある島の、ある一日(それもたった四時間だけ)だ。しかし、その作品には、その島を囲む世界と、その四時間の前後にある数十年とが織り込まれている。ミラノ公国で起きた十二年前の王位簒奪事件、この十二年間の間に起きた娘ミランダの成長や、先住のキャリバンとの攻防と駆け引き。ミラノとナポリの将来をめぐる権謀術数。そして、本懐を遂げて、国に戻ってからの未来。それらが、陰に陽に、散りばめられている。
これは、戯曲よりも詩歌のほうがもっとわかりやすい。優れた詩歌のいくつには、31音の中に過去と未来とが凝縮されている。
たとえば、
いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす
(いちはつの花が咲き出したが、私の目には最後の春が過ぎていくように映る。)
(正岡子規『竹乃里歌』)
時代ことなる父と子なれば枯山に腰下ろし向ふ一つ山脈(やまなみ)に
(生きる時代の異なる父と子は、枯山に腰をおろして、同じ一つの山脈をながめる。)
(土屋文明『山下水』)
前者は、目の前に咲き誇るいちはつの花から、もう長くない自分の生を感じる。自分が不在の来年が折りたたまれている。
後者は、戦後間もない頃に詠まれた歌で、詠み手は父にあたる。父と子という世代の異なる二人が、過去をどのように受け止め、そしてどのように未来へと踏み出していくかが焦点となっている名歌だ。
戯曲というのも、限られた舞台や時間の中で、いかに奥行きを感じさせられるかが命だ。アトウッドが手を付けたのは、まさにその奥行きだ。その奥行きにたたずむ影の隅から隅にまで、光を当て、全く新しい物語に仕上げた。
しかも、それらが全くの好き勝手な創作(だけ)ではない、というのが瞠目に値する。原作のテキストを精緻に読解すれば、明言はされていないが、そういう因果関係だと考えられうるという、解釈を膨らませている。
たとえば、原作では、プロースペローは全くの無罪で、野心満々で邪悪な弟によって王位を簒奪されたかといえば、そうではない。
私はそうした学問にのみ専念し
国事の一切は弟に任せきって
政治のことにはますますうとくなった。我を忘れて
秘術の研究に夢中になっていたのだ。
つまり、プロースペローは、本来の責務である政治を放棄し、魔術の研究に明け暮れていたことが示唆されている。自業自得な面もあるというわけだ。
それを、本作では、もっとはっきりとした形で語られる。
あの根性曲がりの食えないトニー野郎。もとはと言えば、自分がわるい。およそ自分の失策と言えるだろう。フェリックスはこの十二年間、しきりと自分を責めてきた。
言い訳をひとつするなら、あのときの自分は悲しみで正気ではなかった。一粒種の娘を亡くしたばかりだった。
「不評を見るとカリカリするじゃないですか」トニーは言った。「それで、スタッフに当たり散らす。士気が下がるんです」
「おれがいつカリカリした!」フェリックスは声を高くした
より明瞭な形で、フェリックス(プロースペロー)に落ち度があったことが語られる。つまり、『テンペスト』の演出に没頭し、事務仕事をアントニーにまかせっきりにしていたために、追放の憂き目にあったというわけだ。
また、折悪しく、ちょうど娘を亡くしていたことで、それを忘れるためかのように舞台に専念し、事務仕事をより一層おざなりにした。更に、アントニーの語るように、フェリックスの性格にも問題がなかったわけではないようだ。
このように、何故追放されたかについて、原作を読みこめば導きうる解釈を土台に、味付けをしたり、違う人物に語らせたりすることで、新鮮な解釈を生み出すことに成功しているのだ。
以上見た通り、様々な形で、物語言説の差が面白い。その他、面白い細部は様々にあり、具体例を挙げれば、枚挙にいとまがない。随所に原作を踏まえた言葉遊びが施されているし(この点は、訳者の面目躍如だ。)、妖精の力が現代テクノロジーに置き換わっているし(妖精の偵察が、Googleになっているなど)、様々な文学作品が縦横無尽に登場するし…。
とはいえ、もちろん物語内容自体も面白いのは言うまでもない。
その理由の第一は、月並みながら、王道の展開はやはり面白いからだ。世に名作と謳われている映画で、宿敵に追い落とされ、復讐を誓う物語は、いくらでもある。その度に、読者はきっと最後には勝つだろうとわかりながら、それでも楽しく読む。(そして、時にそれが裏切られる。)結局、その構造は、普遍的に面白いのだといえる。
もう一つ。もっと大きな理由として、我々が物語を楽しむとき、目的を達成できるか否か(だけ)ではなく、「いかに」目的を達成するかを楽しんでいるためともいえる。それは、『お伽草子』も同様で、竜宮城に行って、最後には玉手箱をあけることを知っているが、いかにそこに辿り着くかが目玉なのだ。
物語の骨格が同じならば、物語としてのアイデンティティは保たれやすいので、「かたりなおし」や「リメイク」では、その途中経過によく手が加えられるのだ。つまり、原作から本作にかたりなおすにあたって、追加された「物語内容」が抜群に面白い。その一つが「読書会」だ。これがあったから、この作品が、ただのめちゃくちゃ面白い作品に留まらないとすら言える。次節で詳しく紹介しよう。
⑥超理想的な文学読解・読書会の一例として~文学を読みながら、文学の読み方がわかる~
ここで少し物語の筋を振り返っておこう。
芸術監督を追われたフェリックスは、田舎へと引っ越し、失意の中で生活を送る。だが、それから九年後、彼は世間との交渉を持つために、とある職を得る。それは、「フレッチャー矯正所」という矯正所で行われる、囚人の更生プログラム。社会復帰を促進するために、囚人たちに劇を手掛けさせ、リテラシーを身につけさせるという内容だ。
かくして、正体を隠して、「フレッチャー矯正所」の演劇指導者となったフェリックスは、囚人たちとシェイクスピア劇を創ることになる。はじめこそ暗礁に乗り上げかけたが、やがて人気コースの一つに数えられるようになるほどに。
というわけで、その後は、いかに演劇を作っていくかが語られる。
劇をつくるためには、その台本を読み込んで、役作りをしなければならない。演劇を題材にしたフィクションでは、一般的にそんなシーンは描かれないことのほうが多いだろう。(なぜなら退屈だし、難しいからだ。)だが、本作ではその読書会にかなりのページ数が割かれている!
そして個人的には、この『テンペスト』を巡る読書会こそが、本作の肝だと考えている。
ここで思い出すのが、山崎努『俳優のノート』(2013年,文春文庫)だ。
この本は、俳優・山崎努が、『リア王』のリアを演じるまでの軌跡が克明に記されている。『リア王』という作品を徹底的に読む読書記録から、そこから派生した研究の成果(日本古代の生贄やナルチシズム論など、その研究は多岐にわたる)まで。
結果として、徹底した『リア王』の読書記録としても読むことができる。
これを、フィクションとして描いたのが、本書の第一部後半から、第二、第三部と言えよう。
そのコース内容が、次のように語られる。
まず、コースが始まる前に、全員にテキストを読ませておく。(中略)さらに、プロットのまとめと、注釈中、古語の意味を書いたアンチョコも配っておく。
つぎに、クラスで生徒たちと顔合わせをしたら、作品の趣旨をおおまかに説明する。なにに関する劇なのか? 趣旨は少なくとも三つ、あるいはそれ以上ある。なぜなら、シェイクスピアは一筋縄ではいかないのだ、とフェリックスは説明する。
カリキュラムのつぎの段階では、クラス内で主要人物たちの人物造形をひとりひとり綿密に読みこんで話しあう。彼はなぜそんな風になったのか?彼らが求めているものはなにか?なぜそれを欲しがっているのか?さまざまな意見が代わる代わる飛びだし、議論は白熱する。
じつに面白い意見だ。フェリックスはいつもそう言って褒めた。鋭い指摘だな。そしてこう付け足すのを忘れなかった。シェイクスピアに関しては、答えが一つきりということはあり得ないんだ。
第一部後半では、上記の通り、どのように矯正所で、読書会や稽古が重ねられたか、その概略が書かれる。
そして、第二部になると、いよいよ本作のメインである『テンペスト』をめぐる準備へと突入するのだ。ここでは、その会話内容が具体的に、さながら本当の読書会のように詳しく語られる。
(余談だが、ここの語りもうまい。凡人であれば、第一部後半から、この読書会の様子を詳しく書いてしまうだろう。特に最初の頃はトラブル続きだろうし、その試行錯誤はきっと面白く書ける。
しかし、アトウッドは敢えてここを概略で飛ばしてしまい、その様子を詳しく書くのは、メインである『テンペスト』だけに絞っているのだ。
ブラッドベリ『華氏451度』でも、主人公の不可思議な仕事はずっと概略だけで示され、ここぞというときに、微に入り細を穿つように語られる。
これは同じことを何度も語られても退屈だからにほかならないが、抑制を利かせるというのはなかなか難しい。)
ここを読むためだけに、本書を買い求めても絶対に損はさせないし、この場面は、すべてを引用したいくらいだ。だが当然そうもいかないので、一つに絞って、簡単に紹介しよう。
配役を決める段になって、問題が生じる。
物語のキーキャラクターである、妖精エアリアルをやりたがる人物がいないのだ。
囚人たちは、ごつくて、強面の男たちばかり。そんな彼らは、王女や妖精の役をやりたがらない。ほかの囚人仲間からバカにされるし、酷い場合には慰み者にされる危険性を誘発しかねない(fairyはゲイを意味する隠語:本作訳注より)からだ。
王女ミランダ役は実際の女性に頼むことで片が付くが(この一連の流れも面白いし、この配役はこの物語を考える上で重要なファクターだと考えている。この点は、後編で詳しく。)、エアリアルは一向にやりたがる者が現れない。
「断じておことわりだ」教室の後方から声があがる。「フェアリー役なんてとんでもない。以上。こないだも言ったがね」(中略)弱すぎだし、軽(ゲイ)すぎ。問題外。
フェリックスが「エアリアルはフェアリーじゃない。地・水・風・火の四元素のひとつ大気の精なんだ」と指摘しても無駄だろう。
ここでフェリックスはどうするか。あまりにも見事だ。
フェリックスは、生徒(囚人)たちに、問いかける。
「このキャラクターをフェアリーと捉えるのは、わたしたちが充分に広い視野で考えていないからかもしれない」ここで間をおき、じっくり考えさせる。広い視野で考える?なんだ、そりゃ?
「彼は人間ではない」と言って、教室を見わたす。
そして、エアリアルが、物語において、いったいどれだけの働きをなしたか、説明を加える。
「エアリアルというキャラクターについて知っているのは、わたしがいま話したことだけだとしよう。わたしがさっき説明したのは、どんな生き物だった?」
ざわざわ、ざわざわ。「なんつうか、スーパーヒーロー?」レッグズ(※囚人の一人)が言う。「ファンタスティック・フォー(マーベル・コミックスの漫画に出てくるヒーローチーム:訳注)とか。スーパーマン的な。(後略)」
「『スタートレック』みたいなもんかな」Pポッド(※囚人の一人)が言う。「エアリアルはエイリアンでさ、宇宙船が難破したとかで、地球に不時着したってこと。そこで囚われちまって、でも、空を飛んで故郷の星かなんかに帰りたいんだよ。E.T.みたいに。(後略)」
同意のつぶやきが漏れる。なるほど、そういうことか!エイリアンなのか!フェアリーより、よっぽどいいや。
「衣裳はどうする?」フェリックスが言う。(中略)ここ二世紀の間、エアリアル役は決まって女性が演じてきたことも言わないでおこう。
その後、囚人たちがエアリアルの容貌について自由に意見を出す。そして、フェリックスが、言葉をつなぐ。
「エアリアルがプロスペローのために遂行するタスクなしには、この劇はどうなってしまうだろう?雷鳴と稲妻がなかったら?エアリアルは全プロットのなかで、唯一最重要なことを行うんだ。実際、あの嵐(テンペスト)がなかったら、劇が始まらない。つまり、決定的な役柄だ。だが、彼は舞台裏で動く。(中略)現代の演劇界にいたら、特殊効果の専門家と呼ばれているところだ」「つまり、デジタル・エキスパートみたいなものだな。3Dのバーチャルリアリティをやってのけるんだから」
ためらいがちな、にやにや笑い。「いいね」8ハンズ(※囚人の一人)が言う。「イロコいかっこよさ」
「では、エアリアルは劇中のキャラクターでもあるが、うちの公演では特殊効果技師も兼ねることにしよう」
みんなコンピュータはいじりたい。所内では触る機会はめったにないのだ。
「そいつは、化け物級にクールだな!」シヴが言う。
「では、チーム・エアリアルに入りたい人?」
教室の手という手が挙がる。そんなチャンスがあるなら、だれだってチーム・エアリアルに入りたい!
見事!見事!
素晴らしい!
この一連のやりとりだけで、どれほど多くの効果をもたらしていることか。
まず、物語の難所を切り抜けるという、プロット上の効果を果たす。(これは当然と言えば当然。)
次に、『テンペスト』における、エアリアルという存在に様々な角度から光を当てる。その中には、実際に発話していないものも含めて、きちんとした古典的理解から、上演史までの基本的な知識も抑えられている。つまり、見事な『テンペスト』読解といえる。まさに文学を読みながら、文学の読み方が学べるといっても過言ではない。(さながらラテン語で書かれたラテン語入門書"Lingua Latinan"のようだ。)
更に、活発なやりとりだ。時に『E.T.』やマーベルコミックスまで飛び出し、自由に解釈を述べ合う。シェイクスピアという超古典だからといって、誰一人ひるまない。読書をするとは、これくらい自由闊達で良いのだ!これこそ、文学をめぐる最良のディスカッションではないか!
このやりとりのおかげで、フェリックスがこの難局を鮮やかに乗り越えられるだけではなく、囚人たちのリテラシーは向上。おまけに読者は『テンペスト』の理解を深めることができる。
こういった『テンペスト』読解を基盤に置いた展開が、随所に出てくる。文句なく面白いし、やっぱりこれが文学を読むことなんだ!と強く勇気づけられる。
確かに、この囚人たちが多分にお利口さんすぎることは認める。この読書会があまりに理想的すぎることも認める。
だが、こういう心構えや方針で読書会ができたらどんなに幸せだろうか!
ちなみに、こういった読書会の試みは極めて伝統的なものであることに、簡単に触れておきたい。
まず、日本の場合でも、江戸時代に行われた読書会「会読」に似た要素が認められる。
前田勉『江戸の読書会』(2012年,平凡社ライブラリー)では、「会読」について次のように説明される。
会読は、複数の人が定期的に集まって、一つのテキストを討論しながら共同で読み合う読書・学習方法である。この方法には、相互コミュニケーション性、対等性、結社性という三つの原理があった。
つまり、
上意下達だった江戸時代にあって、「「複数の人々が自発的に集会」をして、貴賤尊卑の別なく、対等な関係のもとで」、「「討論」を積極的に奨励」された場、それが「会読」だった。
ちなみに、これが近代化の礎になったというのだから、読書会もバカにできたものではない。
欧米の場合は次の通りだ。
ドイツ人ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは18世紀から19世紀にかけての人文主義者の一人で、言語学に業績のある人でした。彼が知られているのは、その後の大学のモデル構想を提示し、それを1810年のベルリン大学の創設によって実現したことによります。
フンボルト型大学の学習は(中略)単に書物を読むだけでなく、他者と議論し、論文を書くといったスキル的な過程が重視されます。
フンボルト型大学の理念は、19世紀後半にアメリカに移って大きく発展します。
研究と教育を一体的に実施する方法は、専門性がきわめて高い上に少人数でしか実施できません。そのために、このやり方にはまもなく批判も起こります。
(根本彰『アーカイブの思想』2021年,みすず書房)
昨今、教育制度が大きく変わろうとしており、その中でもひときわ注目を集めるのがアクティブラーニングだ。
本書で描かれるのは、あくまで「超」理想的な読書会であるが、もしこの通りにアクティブラーニングがなされたらどんなにかいいことだろう。
本書は、そんな理想的な読書会、教育、読書の例としても読むことができるのだ。
⑧おわりに
以上、度重なる脱線を経て、魅力を紹介してきた。
くどいほど繰り返しているが、とにかく面白いので、ぜひ読んでほしい。
ひとまずここで筆を置くが、また近々、大いにネタバレをしながら、本作の解釈について文章を物したい。
特に書きたいのは、
・ミランダ。
基本的に、原作と本作とで人物は基本的に対応しているが、その中で対応していない人物がいる。一見すると対応している(対応しすぎているくらい)のに、その実、対応しているようにみえるが、対応していない人物。
そう、ミランダだ。
原作では生きており、物語を通してプロスペローの支えとなる重要人物だ。しかし、本作でも重要であることには変わりないが、物語を通して死者である。
「ミランダ」という名前なのにもかかわらず、「ミランダ」たりえない人物。一体、これはなにを意味するのだろう。
・アン。
言葉遣いが汚く、勇敢な女性。原作のミランダは、父親の理想的に育て上げられた。しかし、この作品ではのびのびと、自由に生きた女性が活躍する。原作が父権的なのに対して、本作では女性の自立的な側面が描かれている。(『侍女の物語』などと比較すれば、この点はより明瞭に理解されよう)
・最後の展開。
・見事な訳文
ぜひ一人でも多くの人とそれを分かち合いたいので、ぜひとも読んでいただきたい。
そして願わくば、いつか理想的な読書会をしてみたい。