slackとかdiscordに書き込む感覚でnoteを書く

note右上の「投稿」を押して白紙の画面がバーンと大きく表示される
タイトルにカーソルを当ててみたり、はたまた本文にカーソルを当ててみたりするも一向に書き出す気配はない
そして無為に時間だけが過ぎていきタイムリミット
一文字も書かかれることもなく、バツ印を押して閉じる
まるで夏休みの読書感想文に、一マス目を空けて「僕は」ととりあえず原稿用紙に書いてみるも、全く進まず何日も経過するかのようだ

1日中そんな何も書きたいことが無い状態なのかというとそうでもない
友達がいるdiscordやらslackには、何か思いついたり、あるいはXで面白いものを見つければ、共有している
そこから話が広がることもあり、会話のラリーで解像度が上がると、お互いの意見の差異が見つかり、より活発な議論が進む
それら自分の発言をかき集めてみれば、とっ散らかってはいるかも知れないが、おそらく一本noteを書くぐらいであれば容易い程の分量であれば集まるのではないか
対話を通じてであれば、アウトプットしていくことは可能なはずなのである
そのアウトプットに価値があるかどうかはこの際関係ない

対話によるネタの広がりはどこにあるか?
共感によるものか、差分にあるのか?
自分は違いにこそ面白さ、興味深さを感じると思っている
例えば、滅茶苦茶面白い作品があったとして、「この作品とても面白かったのでおすすめです!」と言った時に、「全くわからない。自分には合わなかった」という反応が返ってきたりすると、めちゃくちゃ面白いなと思う
逆も然り
人が面白いと思うものを面白くないと思うというのは、一体どこに違いがあるのか?
深堀りたくなり、自分が面白いと思ったシーンや要素を具体的に上げてぶつけてみる
相手がその具体に対して違和感を持つあるいは面白さを感じられない要素というものも見えてきたりする
脱線するが、あるケースでは、自分が面白いと思うが、ある人が面白くないと感じる(≒見ていられないと感じる)のは、自分が全くもって軽視していた描写において不自然であり、物語に入り込めないというケースがあった
自分が軽視している以上、気付けない観点で、ポンと手を打つような感覚であった

共感においても、「このゲーム面白かった」という共有に対して、「確かに面白かった。特に~~」みたいな形で話が広がっていった時に、話の解像度が上がっていくと当然ではあるが、同じく面白いと思っている中でも違いが出てきて、そこの観点は自分では見落としていたという部分が出てくるのが面白い

さて、対話によってネタが広がっていくわけではあるが、自分の意見だけであれば、自分の中に元々内包されているはずで、相手のレスポンスを切り取って自分だけのメッセージを出力していくこと自体はnoteに向き合っていても出来るのではないか?
と思うものだが、何故かslack/discordのチャット欄に書き込むのとnoteの本文に書くのとでは全く感触が違うというのが自分の感覚だ
コーチによれば、「温泉型」と「波紋型」という言い方で表現していたが、自ら湧き出るように出てくるのが温泉型で、何か石のようなものを投げかけられ波紋のように広がっていくように出てくるのが波紋型だそうだ
自分はそういう意味では、波紋型で、対話相手との石の投げ合いによって自分の意見を活性化させていく方が向いているのであろう
この対話を自分と自分でできれば強いのだが、いかんせん先程の自分にない視点というのを自分では生み出せないという問題にぶち当たる

とはいえ、その会話のキャッチボールにおける最初の第一球は自分から投げる事が比較的多いことを考えれば、その第一球だけでもnoteに書こうとしてみればいいのではないだろうか?
とりあえず、slackやdiscordに書こうとする一文を書いてみるのだ
そしてそこからなんとか対話的に自分へボールを投げ返して弄りだしていくことで0→1の記事を生み出すエンジンにできないだろうか
とか思いながら、
「毎日slackとかdiscordに書いてることがnote書くためのネタになるんじゃ?」
というちょっと思いついて、誰かに当ててみよっかなと思ったことで書き出したこの文章もなんだかんだ書き出すと1000文字ぐらい超えてたりするので意外と良いかもしれない

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