おーい!誰か聞こえるかーい?
年齢だけは良い大人になった今更星新一を読んでいるのだから、私は読書が好きとか堂々と言ってはいけない様な気がしている。
かの有名な星新一のショートショート集「ボッコちゃん」を読んでいる。その中の「おーい でてこーい」を読んで、どうにも既視感があった。いや、既視感と言うよりは既発表感という独創的な単語の方が適切だろう。かつて中学生だった頃、英語弁論大会で発表した内容とそっくりだった。当時、英語の教科書に記載されていた物語で、暗記して発音を練習していたのだった。結果は地区大会5位と言う何ともならないものだったが、しかし四半世紀程経った今、日本語の作品を読んで英語を思い出した。これは同じ作品ではないのだろうか。
調べてみたら、やっぱりそうだった。星新一の「おーい でてこーい」を英語にして"Can anyone hear me?"という題名で掲載されているものだとgoogle先生が教えてくれた。文明の利器と通信の発達はありがたい。
内容としては(思いっきりネタバレだが気にするまい、長年愛された有名作品なのだから)、ざっくり言うと、ほこらがあったはずのところにある日大きな穴ができていた。人々はおーい、誰かいるかーい、と言った具合に叫ぶが返事がない。誰かが小さい何かを穴に放ってみても、反応がない。穴に放り込む「何か」は段々と大きくなり、たくさんになり、複雑になり、ついには核までも穴に捨てるようになった。そしたらある日、空からおーい、と呼ぶ声がした。人々はなんだか分からなかったが、程なくして空から小さな何かが降ってきた、という内容であった。SDGsが叫ばれる現代にも再度見直したくなるショートショートではないか。名作を生む作家の視点とは決して派手でも奇抜でもないのだが、表現が優れているのだと実感できた。
さて、私はこの"Can anyone hear me?"が星新一作品とは知らなかった訳だが、ボッコちゃんで日本語を読んで最初に「これは、あの英語の教科書に出てきた話を盗用したのではないだろうか?」とまず考えた。理由をこじつければ、おそらく私が先に触れたのが英語だったから、英語の話が先に世に出たものと決めつけていたのだろうと思う。星新一の日本語で書かれた作品が先と知って、私は何とさもしい発想をしていたものか、恥ずかしくなってしまった。事実は慎重に確認しなければならない。中学生の頃に先生は何も言っていなかっただろうか、とも考えてみたけれど、星新一作品であったという解説はなかった様に思われるが覚えていないという以外の記憶が正しいか定かではない。このように当時の先生の責任にしようとしているのだから、私はやはり余程さもしいのだろう。
ここにオチがつけば、この話もショートショートになったのかもしれない。しかしそうならないのが素人たる所以である。