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【小説】異世界風俗

 担当のことは好きだったし、ナンバー1にしてあげたかった。当然、被りの女にも負けたくなかった。おかげで明日までに払わなきゃいけない売り掛けは、三百万円。
 どう考えても無理。
いったい、何本おっさんのちんぽしゃぶればいいわけ? いや、何本しゃぶっても明日までに三百万なんて無理だ。無理にもほどがある。

 売上の入った封筒を受け取り店を出る。白けてきた空が「今日」が始まったことを知らしめてきて、鬱陶しい。
 MCMのリュックからミネラルウォーターを取り出す。リュックは先月、ピンクから白に変えたばかりだ。
 ペットボトルから水を口に含んでうがいをし、ゴミと煙草の吸殻が転がっているアスファルトに水を吐き出してみた。それでもうっすら口に残るイソジンの味が、いつも以上に不快で顔が歪んだ。売り掛けさえなければ、朝ホスに行けたのにと思うと、不満が口の中いっぱいに広がる。
 店が終わったのを見計らったように鳴ったスマートフォンが、そんな気分に追い討ちをかける。どうせ売り掛けの催促だろうと思ったが、通知音はメッセージアプリのそれではない。
 こっそり監視している、同担女のSNSが投稿を知らせる通知だった。
 画面を見ると、ポップアップ通知に収まる文字数からでも投稿内容を察した。
「ふざけんなよ!クソアマ!」
 気づけばスマートフォンを相手に暴言を吐いていた。まだ口の中にイソジンの味が残っている。
「私が!エースだろうが!あいつを一番にしたのは!私だろうが!今日だって何本ちんぽしゃぶって、口の周りがべとべとになるまでキスされて!乳首だって噛まれてもげるかと思った!なのに!あのクソ女とアフターしてんじゃねぇよ!」
 ひと息に捲し立てると肩が上下していた。自分の声が頭の中でキンキンと反響している。匂わせてんじゃねぇよと叫んだ声が、自分の声じゃないように聞こえる。
 自販機の前で項垂れていた男がのっそりと顔を上げたが、目が合うと再び膝を抱えた腕の中に顔をうずめた。
 疲れた。
 あほくさい。
 唸るようなため息をついて、画面をオフにしてスマートフォンを握りしめた。辛うじてぶん投げるのはやめたが、それは理性というよりそんなことをする体力すらもなかったからだ。
 とにかく疲れた。

 もう、売り掛けも風俗も、ホストも、何もかもから飛んでしまいたい。歌舞伎町から消えたい。
 気づけばあの有名な角地に建てられたビルの屋上へ足が向いていた。
 あれだけ屋上へ侵入されたにも関わらず、まだ施錠はされていない。でもそれも時間の問題かもしれない。
「さむっ」
 早朝の風に身震いして身体を抱きしめる。遮るビルのない風は容赦なくとれかけた巻き髪をいっそうめちゃくちゃにする。溢れ出る涙すら冷して頬の熱を奪う。
 きっと眼下のアスファルトはもっと冷たいんだろうな。
 それでも、一歩踏み出せばすべてから解放される。
 嫉妬、もはや愛情と言えるかも不明な歪んだ感情。おっさんの、そこじゃねーよと叫んでやりたい愛撫。それでも感じているふりをして得た金を、担当のためと言い聞かせてつぎ込んでいたが、ほんとうはあの女を会計伝票でボコボコにしてやりたかっただけなのかもしれない。

 さよなら、歌舞伎町。
 たった0.3キロ平方メートルが、私の世界で、こんな高いところから見下ろしても狭苦しい。
 それでも、私のすべてが詰まっていた。私の居場所だった。
 さよなら、私のきたねー世界。



 あー、知ってるこれ。
 ネトフリで見たことあるわ。異世界ってやつ。いやさすがにそれはないでしょ。だって今、酔ってもパキってもないし。

 瞼を通しても届いてくる光が煩わしくて、美織は眉をしかめながらゆっくりと目を開けた。遮光カーテンで遮られた部屋では起こらない現象に戸惑う。むしろ視界に映ったのは久しぶりの青空だ。カーテンどころか天井すらもない。紛れもなく屋外だ。
 歌舞伎町のビルの屋上から飛び降り、次に意識が繋がって見えたのが、自分には縁遠いすがすがしいほどの青空。病室の天井を想像し、ほんの僅かな安堵とまた現実に戻された虚しさを、磯臭い風が吹き飛ばす。
 じゃあ私、死ねなかったの? 売り掛けも風俗も飛べなかったの?そんでどこかの田舎に出稼ぎに来ちゃった?担当スカウトにそんなこと頼んだっけ?

 遠足の匂いがする。
 磯臭い風の下から草の匂いが鼻をついた。仰向けの姿で目覚めたまま、ぼやけた視界に広がる青空を眺めた。雲がゆっくりと動いていく。まるで時間という概念を無視したかのように。

 いやまじで、ここどこよ。

 それにしても、昼間に外に出たのはいつぶりだろう。
 そして、恐ろしく静かだ。遠くから聞こえる控えめな波の音は、歌舞伎町の喧騒に慣れ親しんだ美織には少し物足りない気もした。
 こんな場所にはホストクラブなんてないだろうな。
 よくわからないけど、少なくとも歌舞伎町とはさよならしちゃったんだ、私。ホストクラブも風俗もない世界に。世界っていうか、どこかの田舎なんだろうけど。
 もう掛けがいくらだとか、それには何日出勤していくら稼がなきゃいけないだとか、担当の誕生日があるからタワー代も稼がなきゃだとか。
 そんなことを四六時中考えなくてもいいんだ。この世界にはきっと担当もあの同担クソ女もいない、はずだ。

 というか。
 ビルの屋上から飛び降りたというのに、身体には痛みがまったくない。
 上体を起こしてみる。頭から落ちたのか、腰から落ちたのかは覚えていないが、背中や腰への痛みもない。何より意識もはっきりしている。
 美織はおそるおそる手を着いた。草の感触で手のひらがくすぐったい。そして草原に放り出された両足をゆっくりと曲げた。膝は本来の役目のとおりに曲がった。着いた手を慎重に離し立ち上がろうとしたが、そんなことをするまでもなく、美織の足は地面にすくっと伸びた。

「落としてるぞ」
 ふいに耳を打った男の声に、美織の肩が跳ねた。
 声の方へ振り向くと、美織の白いMCMのリュックを手にした男が、気だるそうな目で美織を見ていた。
 美織は、はたと自分の衣服を確かめた。ブラウスのボタンはきちんと留められているし、下着を着けている感触もある。
 男に駆け寄り、男の手から強引にリュックを奪った。男が目を瞬いているのも気にせず、美織はリュックの中に手を突っ込んだ。手に触れた薄く無機質な手触りに安堵し、だが勢いよくそれをリュックの中から引き上げた。
 スマートフォンの画面に表示された時刻は九時四十三分。そして美織は素早く目線を右上に移した。
 電波がある。ということは、ここは異世界ではなく、紛れもなく現実の、日本のどこかだ。
 美織は深いため息を吐き、スマートフォンを握りしめてしゃがみこんだ。
 生きてるんじゃん。
 そして、まさかと思っていた自分の想像が当たっていたと確信する。
「おい、大丈夫か?」
 再び男に声をかけられ、美織は顔を上げてきっと男を睨んだ。男はそれに怯む様子もなく、「てか、美織ちゃんなんでこんなとこに寝てんの?」と、事も無げに問いかけた。
 どうしてこのおっさんは私の名前を?やっぱりスカウトと繋がってんのか。
 美織は軽々しく、ちゃん付けで呼ばれたことに少しムッとしながらも
「おじさんソープの人でしょ? 私、出稼ぎ頼んだこと覚えてないんだけど、いくらで契約したことになってる?」
 男は目を見開いた。
 年の頃は四十前後だろうか。やせぎすで、少し窪んだ目の下がいっそう顔に疲労感を表している。髪の毛に一応は整髪剤を使っているのがわかるが、寝癖を整える程度だ。服装への無頓着さがネクタイの趣味からも窺える。だらしなくしまわれたワイシャツ、もう何年履いているのかと思う、生地がテカっているスラックスに、履き潰した革靴。
 いかにも、といった男の見てくれに、美織はスカウトに出稼ぎを頼んだ記憶を掘り起こそうとしていた。どうかスキン着用店、いわゆるS着でありますようにと願いながら。
「ああ、まあ、混乱するのもわかるよ」
 学芸会でももう少しうまく演じられるだろう。それくらいの棒読みで慰めの言葉を放つと、男はスラックスのポケットから煙草を取り出した。片手で潮風を遮りながら火をつける。
 あ、ここ路上喫煙オッケーなんだ。路上じゃないけど。
 などと思いながら、美織は硬い表情で男の言葉を待った。とにかく、来てしまったからには、出稼ぎ先の給与を気にしていた。
 男はひと口、吐き出した煙を目で追ってから、視線を美織に戻して、相変わらずなんの感慨も持たない口調で続けた。
「美織ちゃんはさあ、歌舞伎町のビルの屋上にいたよね」
 なんで知ってるの? という言葉は、美織の喉の奥で堰き止められた。変わりに「ひぇっ?」という、間抜けな悲鳴にも似た音が半開きになった口から溢れた。

 美織が倒れていた丘の下には、海が広がっていた。海といっても、リゾート地の澄んだ青色とは違って、深海の暗闇を引き上げたような黒に近い紺色をして、重たそうに波肌を揺らしている。
「ここ、渡敷島っていうんだけど、知ってる?」
 美織は男から差し出された名刺を手に取り、首を横に振った。
 知ってる島なんて八丈島くらいだ。
 地理どころか勉強なんてろくにしてこなかった美織に、唯一おぼえがあるのは、いちおう東京都に含まれる八丈島だけだ。
「そうかあ、もう今の若い子は知らないか。まあそうだよなあ」
 と、名刺に記されていた佐々山善郎という男は検討はずれなことをのんびりと呟いた。

 美織はたしかに、昨日というか日付からいって今日の朝方、歌舞伎町のビルの屋上から飛び降りた。
 仕事帰りで疲れ、同担の女のSNSへの発信に怒り狂ってはいたものの、その辺の記憶はしっかりとある。酔ってもいなければ、オーバードーズでラリってる状態でもなかった。
 屋上の冷たい風に身震いし、履いていた厚底のサンダルをきちんと揃えたこと。柵を乗り越え、足をついた時の靴下から足裏に伝わったコンクリートのひんやりとした感触にぞっとしたこと。そして深く息を吸うと、生ゴミなのか吐瀉物なのかよくわからない、歌舞伎町特有の臭いになぜか涙が零れたこと。
 そして後ろ手に掴んでいた柵から手を離し、重力に身を任せると、意外とあっけないなという感想が頭を過ぎり、そんなことを感じるほど景色がゆっくりと目の端を流れていったこと。反転した視界に、明け方の白い空が広がったこと。
 そこまでの記憶を、美織はありありと思い出せる。
 だが落ちている間に気を失ったのか。身体がアスファルトに打ちつけられた痛みなどの記憶はない。現に美織は佐々山と連れ立って歩くくらいには、骨折のひとつもしていない。

 佐々山は、少し落ち着いて話そうと言って海とは反対側に面した階段へと歩き、下って行った。
 同担の女の匂わせ発信にさえ、スマートフォン相手に罵っていた美織だ。佐々山がどうして自分が歌舞伎町のビルの屋上にいたことを知っているのか、胸ぐらを掴んで問いただしてもおかしくはない。
 スカウトに出稼ぎの依頼をした覚えがないのだから、今から飛び降りると伝えていたことを、覚えていない可能性はある。口の軽いスカウトめ。
 しかし美織は佐々山が自分の行動を言い当てた時、なぜか畏れのようなもので全身を拘束されたような感覚に陥っていた。最期に視界いっぱいに映った、朝焼けが始まる間際の白い空に、一瞬だけ心臓が喉元にせり上がってきて恐怖を覚えたことを思い出した。
 死んだ魚のような目で、口から煙を吐き、まるで抗えぬ絶望をひとつの現象として捉えなければ心が保てない。といったところまで行き着いたような佐々山の態度が、美織が自ら命を投げ出すよりも更に深い「底」を見せられている気分にさえなったからなのだろうか。

 もしかしてあの丘は天国……いや、自分が天国なんぞに行けるはずはないから、死後の世界かなんかで、佐々山はそこの案内人のようなものなのか。それにしては、くたびれたおっさんだ。まあ天国ではないから、迎えに来たのが天使ではないことは諦めるとして。
 美織はそう思うことに努めた。
 そして佐々山の背中を追って階段を下りた。佐々山の細くなった髪の毛の向こうに、舗道を挟んでいくつかの店舗が見えた。ほとんどのシャッターは閉まっているが、店先に色褪せた浮き輪やビーチボールなどをぶら下げた店へと佐々山は入っていった。
 磯臭さが、いっそう美織の鼻をついた。

 渡敷島は一九八○年代から九○年の頭まで、無許可の風俗店で賑わっていたらしい。
 のちに美織が島を散策した際に、電球の割れた立て看板や、もうほとんど色味のない女性が映っているパネルなどを見る限りでは、それは嘘ではないようだった。
 しかしそれはつまり、現在は風俗街としての役割がほとんど失われているという景色だった。
 鉛のように重たげな海に囲まれ、とても海水浴を楽しむという雰囲気すらない渡敷島は、幾人かの住人を乗せた孤島だった。

 佐々山は席に着くなり煙草に火をつけた。
「腹減ってるなら、奢るよ。まあたいしてうまくはないけど」
 佐々山は壁に貼られたメニューの短冊を顎でしゃくった。
 ラーメン、カレーライス、親子丼……と、食堂には必ずあるようなメニューが並ぶ。佐々山に、たいしてうまくはないと言われた店主らしき老婆は、カウンターの奥でうたた寝をしていた。
「じゃあ、コーラ」
 美織が最後に食事をしたのは風俗店での待機中だ。しかし状況が状況な上に、ここで出される食事を口にする気にはなれなかった。
 腰の曲がった老婆に出された瓶のコーラも、賞味期限が怪しい。
 コーラ瓶と共に出されたグラスに手酌した。美織はいちど、黒い液体の中からおっくうそうに弾ける炭酸を見つめ、グラスを口にした。喉を鳴らして一気に飲んだ。佐々山に出会ってから、粘膜が張りつきそうなほどに喉が乾いていたのだと気づいた。
「年間の日本の行方不明者数って、知ってる?」
 佐々山はテーブルに両肘をついて、まるでうまいラーメン屋知ってる? くらいの気軽さで訊ねた。
「知らない。それよりあんた……佐々山さんさぁ」
 美織はテーブルに置いたグラスを両手で握りしめた。
「こんな寂れた場所で、売春させる気なの? てか客、来るの?」
 コーラで潤いを取り戻した喉がようやくいつもの口調を取り戻す。
「そりゃあ美織ちゃん次第じゃない?」
 佐々山は煙草を銀色のアルミ製の灰皿に押しつけた。
 美織ちゃんと呼ばれることに苛立ちを覚えていたが、今はそれに対してとやかく言っている場合ではない。
「たしかにスカウトに出稼ぎしたいって言ったかもしれない。覚えてないけど。でも私、自殺したんだよ?身体はこんなにピンピンしてて、まあ運悪く死に損なったんだけど。そんな女にさ、またおっさんのちんぽしゃぶれって言うの? スカウトからいくら貰ってるかしらないけど、あんまりじゃない?」
 グラスの水滴で指が滑りそうだった。指先だけが冷たい。胃のあたりから、さっき流したコーラが吹き出してきそうだった。
 佐々山は頭をかいて少し考えたあと「失礼だけど」と言葉を区切って、美織の横に置かれたリュックを指さした。
「美織ちゃんて、あんまり友達いないほう?」
 美織はなぜ今そんなことを、と思ったが、佐々山の指先がリュックの中にあるスマートフォンを示していると気づいて、はっとした。
 ビルの屋上から飛び降りたのは午前五時すぎ。丘の上でスマートフォンを確認した時は、時刻は九時四十三分だった。気を失っている時間はあったものの、あれから五時間近く、美織のスマートフォンには誰からの連絡もなければ、同担女がSNSに発信したことを知らせる通知もない。もちろん担当からも。
 時刻と電波状況を確認した際にも、画面にはなんの通知も表示されていなかった。あの時は飛び降りた衝撃でスマートフォンが壊れていないことと、電波があることに安堵した。しかし、電波があるのであれば、一切の通知も呼出音も鳴らないのはおかしい。
 佐々山に心配されるほど、美織に友達が少ないわけではない。五時間近くの間、誰からの連絡もないことは美織にとってありえない事態だった。
 壊れた?
 美織は慌ててリュックからスマートフォンを取り出して、画面を点灯させた。
 時刻はさっき見た時よりも進んでいる。手早くパスワードを入力してホーム画面を表示する。いちばん上の列に並んだアプリのアイコンのうち、メッセージアプリをタップする。
 担当からの返事はきていない。
 トーク画面を開くと、美織の送ったメッセージは未読になっていた。
 同担女がSNS上で匂わせた、ホテルの一室を映した写真を思い出して「クソが」と小さく吐き捨てた。
 気を取り直してSNSのアイコンをタップする。やくたいもない話から、よく盛れた自撮り写真。代わり映えのない投稿が並んでいる。何度か画面をスクロールしていた美織の手が止まった。両手で持ったスマートフォンを顔に近づけて、大きく目を見開いた。心臓が、昔の借金取りが家に押しかけてきたのかごとく、胸の内側をノックする。

【速報】歌舞伎町のビルから女性が転落死

 ご丁寧に、警察官がブルーシートを張っている写真も一緒に投稿されている。
「まって。これ、私じゃん」
 浅い息と一緒に言葉が漏れた。
 写真に写っているビルは、紛れもなく美織が飛び降りたビルだ。いくら歌舞伎町では飛び降り自殺が少なくはないとはいえ、同じ日に、同じビルの屋上から飛び降りたという話は聞いたことがない。
 投稿についたコメントには、即死だったと書かれている。
 心臓が激しく飛び跳ね、勢い余って口から飛び出してきそうだった。呼吸のたびに肩が上下する。頭が朦朧として、うまく考えることができない。画面の文字が歪んで見える。
 ただ『歌舞伎町のビルから飛び降りて死んだ』という事実は、否応なしに美織の視界にうったえてくる。
 死んだ? 私はこうしてSNSを見てるというのに? じゃあ今こうして知らないおっさんと、磯臭くて汚い店で気の抜けたコーラを飲んでいる私は誰なの? 幽霊? ここがあの世ってやつ? こんなに生々しく自分の死を確認させられるの? そんなアニメあった気がするけど、もしかして地獄? そうだまさに地獄だよ、今の状況って。
 小刻みに震えたスマートフォンが美織の顔から離れていく。呼吸は早くなり悲鳴にも似た声が混じる。いつ叫びだしてもおかしくはない。
 佐々山はそう感じたのか「大丈夫?」と美織の顔を覗きこんだ。
「大丈夫なわけねぇだろ!」
 美織はコーラ瓶を佐々山に投げつけた。
 佐々山はひょいと、反射的にそれを避けたが、瓶に残ったコーラがこめかみにかかった。壁にぶつかったコーラ瓶はごろごろと床を転がる。
「あのさぁ」
 佐々山はワイシャツの袖でこめかみを拭いながら「ちょっと落ち着いてよ」といささかうんざりした顔で言った。だが声にも表情にも怒りはない。こういう事態には慣れてしまっているという様子にも見える。
「だって、なんで? 死んでまで、なんでこんなもの見なきゃいけないのさ!」
「いや、自分で見たんでしょ?」
「そういう問題じゃねぇよ!」
 元はと言えば、佐々山がスマートフォンを確認するように仕向けたのだ。
それにしたって、自分が死んでも何も変わらずに進む日常や、死んだというのに返信どころかメッセージを読もうとすらしない担当が、とにかく腹立たしくて悔しかった。
 どうして死んでも不幸なんだろう。
「まあ、聞いてよ」
 佐々山は落ち着き払った、というよりは美織の怒りには無関心であるかのように、再び煙草に火をつけた。だが美織の火のついた感情は止まらない。
「やっと楽になれるって! もう全部から逃げたくて、でもものすごく怖かったのに! でもとにかく消えちゃいたくて、それなのに!」
 美織は金切り声をあげ、テーブルの上のグラスを腕で払った。床に叩きつけられたグラスは華奢な悲鳴を放って割れた。カウンターの奥から老婆がゆっくりと立ち上がり、ほうきと塵取を手にしてグラスの破片を片付けに来た。
 その姿はしゃくりあげる美織の視界には入っていないようだ。子供のように顔をぐしゃぐしゃにして涙を流し、テーブルに突っ伏した。
「もう全部の嫌なことを見なくても気にしなくてもいいんだって、それなのになんで、全然変わってない! むしろこんな磯臭い島に飛ばされて! またおっさんのちんぽをしゃぶれって? 股を開けって? 最悪!」
「じゃあ、もっかい逃げる?」
 長く煙を吐き出してから、佐々山は平坦な口調で聞いた。美織は勢いよく顔をあげ「どこにだよ! これ以上の地獄に?」と、平手で机を叩いた。
 う〜ん、と小さく唸り佐々山は頭をかいた。今回は難しいなあとボヤいて煙草を灰皿に押しつけた。

 島内はどこも磯臭くて、風が吹くといっそうここがどんよりとした海に囲まれた島であることを思い知らされる。
 だが寂れた島には似つかわしくないいかがわしい看板が、肩を寄せ合うというよりは、狭い敷地に押し込められたように連なっている。
 美織はそれらを心底つまらなそうに眺めた。海から吹いてきた風が、美織の艶のない髪の毛を気まぐれに弄んだ。耳から下が、金髪とも茶髪とも言い難い色だが、それもあまり気にならなくなっていた。むしろこの島ではいちばん垢抜けているとさえ思っている。
 ふと、美織は誰かの問いかけに答えるように振り向いた。
「だって私、カナズチだもん」
 眉を下げて笑い、美織は昔からそうしていた、という足取りでかつての歓楽街を歩いていった。
 泳いで逃げられた、あなたはよっぽど運がよかったし、私には沖まで迎えに来てくれる仲間もいないし。
 ふっと笑った美織を、聞き慣れた声が呼び止めた。
「あ、美織ちゃん」
 声の主は佐々山だった。
 スナックと表記された看板の向こうから、相変わらず気だるそうに歩いてくる佐々山は片手を挙げた。その後ろには、見覚えのない女が俯いていた。
美織は、いつだったか佐々山が「年間の日本の行方不明者数って知ってる?」と訊ねたことを思い出した。知らないと答えた美織に佐々山は「年間で八万人」だと教えた。続けて、自分たちはその八万分の二、つまり四万人のうちのひとりに過ぎないと言った。するとこの新しい女を入れると、八万分の三、つまり……。
 美織はそこで考えることをやめた。
 そもそも日本の人口が何人かすらもわからない美織にとっては、八万人がどれくらいの規模かも想像がつかない。でもとにかく、たくさんのいなくなった人間のうちのほんの一部で、いなくなっても気づかない程度、ということはわかる。
 それよりも美織は、昼のワイドショーで見たことを佐々山に教えたかった。
「ホスクラの売り掛け、禁止になったんだって。今更だよね」
 佐々山は「へぇ、知ってた?」と後ろの女に振り向く。顔をあげた女の顔は引き攣り、かと思えば引きつけを起こしたかのように泣きだした。
 佐々山はしまったと額に手を当てた。
 女に視線を移した美織は目に憐れみを浮かべつつも、押しとどめることのできない感情が唇に笑みを作っていた。
 そうだよね、それなら飛び降りようとはしなかったかもしれないね。あんな場所に行ったせいで、あなたは今、こんな磯臭い島に連れてこられちゃったんだもんね。
 あのビルの屋上で、怯んでしまったばっかりに。
 泣き崩れる女を佐々山は必死に宥めた。美織に目顔で「余計なことを」とうったえている。そして、調子が良いと思えばこれだ。と、ため息を零した。


 食堂の老婆が割れたグラスの破片を片付け終わると、またカウンターの奥へ引っ込んでいった。
 佐々山はコーラがかかってベタベタするこめかみを指で押しながら、子供を宥めるような口調で、もういちどゆっくりと美織に語りかけた。
「日本のさあ、行方不明者数って、年間で八万人もいるんだって。知ってた?」
 美織の泣き声がぴたりと止んだ。
 佐々山はほっと胸を撫でおろし、椅子の背にもたれた。
「佐々山さん、私」
 赤くなった目元を擦り、美織は何かを問いかけるように佐々山を見つめた。だが、聞かずとも美織はその問に対しての答えを知っていた。佐々山は小さく頷いて見せた。
 美織は弾かれたようにリュックを漁った。さっき丘の上で手渡された佐々山の名刺のほかにも、まったく同じ名刺が数枚、リュックの底から出てきて「あっ」と声を漏らした。
「私と佐々山さんは、八万人のうちの二人」
「そう」
「私は、あの日、歌舞伎町のビルから、飛び降りなかった」
「うん、美織ちゃんは、死んでない」
「そうかあ、やっぱり、死ねなかったんだ。生きちゃってるんだ」
 美織は開け放たれた戸口に首を回し、見知った景色に目を細めた。

 ギリシャ神話に出てくるような、太くて真っ白な柱を入口にたたえたビルからは、ここ一年に七人もの女が飛び降りたと、何かの記事に書かれていた。
 美織が丘の下の食堂でSNSを見た時も、たまたまそのビルからの飛び降りが投稿されていた。歌舞伎町は狭い。同業者であればニュースで名前が報じられずとも当人を特定するのは容易い。そして未だ匿名が許されるインターネットの片隅で、わけ知り顔で公表する者が少なくはない。
 その者が言うには、あの日、歌舞伎町のビルから飛び降りた女は『りお』という女らしい。真意のほどは定かではない。源氏名かもしれない。だが、美織ではないことは確かだ。
 現に美織は、その飛び降り事故が起こる一年前から渡敷島で、細々と売春をしている。
 かつての英華の残骸の中で、今や数件だけとなったスナックの二階で密かに客を相手にしている。もちろんこれは非合法だ。摘発から逃れた数件が、未だにそういった商売を続けているのは、それ以外に食い扶持がないからだ。渡敷島で生まれ、渡敷島しか知らない人間には、今さら島で商売をするにも、島外へ出て仕事をするにも、知恵も勇気も、体力もない。

 美織は歌舞伎町のビルの屋上で、柵を越え、コンクリートの淵で眼下への怨みが背中を押すのを待っていた。唇をわななかせ、とめどなく流れる涙を拭いもせず、ときどき鼻を啜った。
 そんな時、背後から佐々山に腕を掴まれた。肩が跳ね、反射的に振り向いた美織はバランスを崩し、身体が宙へと傾いた。
 あ、死ぬ。
 そう思った。
 彩度の高い看板が消え、明け方の白い空が視界を覆った。
 これで終わる。終わってしまうんだ。終わる、の?
 そこで美織は意識を失った。
 目を覚ますと、白い空は大きな染みのある木の天井に変わっていた。
 美織はその時のことを、ときどき思い出せなくなる。
 自分はしっかりと飛び降りた、という記憶を捏造することで、佐々山により島に売られた事実から飛ぼうとする。
 未だ八万人のうちのひとりの行方不明者であり、捜索もされない、いなくなった大勢の中のひとりである現実は、美織を空想から連れ戻す合言葉でもある。
 そうして『歌舞伎町のビルから飛び降りた美織』に対し、佐々山は何度も初めましての名刺を渡している。
 佐々山もその繰り返しに、自分のほんとうの名前は佐々山善郎なのかもしれないとさえ思い始める始末だ。

麦茶を煮出した時のような匂いは、紙タバコを愛煙する佐々山には未だに慣れなかった。
「あった? 私の眠剤」
 美織が食堂を出ていったのを見計らった女が、佐々山の向かいの席に無遠慮に腰をおろした。
「いや、全部飲んだっぽいね。丘の上でぶっ倒れてた」
 加熱式煙草の煙を豪快に吐き、女は「うっわ、最悪。寝れねーじゃん」と声を荒らげた。
 佐々山は女から目を逸らして、面倒だと言わんばかりに顔を曇らせた。それは女の怒りを助長して、女は前のめりになって佐々山に詰め寄った。
「てか美織、最近さらにやばくなってない? たまに記憶が飛ぶどころか、このあいだなんて海に向かって話しかけてたし。あれ、クスリでもやってんじゃないの?」
 そんなものがこの島で手に入るのなら、わざわざ歌舞伎町で飛び降りようとしてる女を拾って売春なんかさせてないよ。
 佐々山は喉まで出かかった言葉を呑みこんだ。
 しかし、売春婦よりもクスリを手に入れて、いっそ狂ってしまった方がいいのではないか。
 そんな思いが頭をよぎったが、いくら狂ってもこの島からは逃げられない事実が、佐々山の頭をもたげた。
 自分の役割から逃げることも、見つけてもらうこともできない。死んだところで騒ぎたてられることもない。
 向かいで加熱式煙草をふかしている女も、そして美織も。
 閉ざされた島の、そこに扉があることを知っている数少ない好事家たち。彼らと肌を重ねた時だけ、あるいは彼らを女の元へと案内した時だけ、自分たちは『八万人の行方不明者』ではなくなるのだ。
 まさに異世界。
 ほとんどが摘発され今や伝説とさえも謳われているが、未だに細々と需要があるということは、この島は腐っても桃源郷なのかもしれない。
「でも歌舞伎町にいた時よりは、眠れるようになったけど」
 終わりを告げる振動を確認し、女はスティックから煙草を抜きとり灰皿に投げた。
 佐々山はそれを聞いて、いくらか笑みを浮かべた。
「それはよかったよ、りおちゃん」




【参考文献】
売春島 高木瑞穂 著


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