稼げなければ遊びに過ぎないのか。
私にとって、書くこと。それは、遊びとは形容し難いもの。
けれど、そこにお金が発生していなければ、周りから見れば遊びに過ぎない。
主観と客観の食い違いに、私はずっとアンビバレントな気持ちを抱えていた。
今年に入ってから、転職に続いて結婚をして、私は人生の分岐を迎えた。
そして、思った。
お金も時間も大切なものであり、同時に余裕がないものであるということに。
なので、「稼げない自分の時間」は極限までに切り詰める必要がある。
世の先人たちがたくさんの足跡を残すこの至難の道を、私も通るときが来てしまったのだ。
すなわちそれは、書くこととどう向き合うのかということにも通ずる。
自分の文章を情報商材に変えられる器用さなど、私にはない。
私にとって書くことは、単なる時間の浪費なのか?
答えを出したくない自問自答を繰り返していると、むかし、SNSでとても素敵な執筆をされていた精神科医の方のことを思い出した。
ゆるくつながる関係だったけれど、その方の不器用なまでの利他的な価値観に、私は羨望していた。
ただ、その人は突如としてSNSをやめてしまった。
-人の心を癒すのにどうしても資本主義が壁になる。
そんな言葉をよく残す人だった。
◇
この社会は、競争の原理で成り立っている。
うまく包み隠されているけれど、いつだって、人間同士で緩やかな奪い合いが起きている。
競争の善し悪しは、私には分からない。
けれど、心の弱い者にとって、厳しい世界なのは自明だ。
競争で勝つためには何よりも強さが問われる。そして、競争に勝った者がお金をたくさんもらえる。
生活をしていくためにはお金が必要であり、この社会では、お金がいちばんの価値基準といっても過言ではない。
優しさは大事だって言われるけど、いくら人に優しくしたってお金はもらえない。
私だって、意地悪な奴にたくさんのものを奪われてきた。
そんな奴が幸せそうな顔をしていると心の底から悔しいけど、それが世の中の摂理だ。
SNS上では、顔も見えない誰かが「休んでもいい」と優しそうな言葉を投げてくれるけど、実際に休んだってその人がお金をくれるわけじゃない。
それどころか夢っぽいことを見せて、心に余裕がない者に情報商材を売って、さらに奪おうとする者だっている。
競争というのは、とても残酷だ。
かつてSNSで慕っていた精神科医の方は、この難しさに直面していたのだろう。
私はむかし、本を読み漁って得られた知見をブログに綴っていたこともあった。
けれど、馬鹿真面目に文字を綴ったって、金銭的価値など生まれない。
昔も今も、教祖と信者みたいな主従関係が、いちばんお金が動いているように思う。
この悪夢のような現実がいやになり、私は何も考えたくなくなった。
気づけばブログの更新はしなくなり、好き勝手書いても許されるエッセイを私は書いていたのだった。
◇
商売っ気の強い文章を見ると、私は心の中が真っ黒になる。
だけど、そんなふうになってしまう自分のことがとても嫌いだ。
「倫理的に正しくない」とか口には出してみるけど、ほんとは自分が稼げないことへの妬みで気持ちがいっぱいなのだ。
じゃあ、文章を書くのをやめればいいじゃんって?
もっと、家族や仕事を大事にすればいいじゃんって?
無理なのだ。割り切れないのだ。
書くことが好きだから続けられる。みんなに反応してもらえるから続けられる。お金など関係ない。
そんなふうに、この文章を終わらせられたら、どれだけ楽なことだろう。
けれど、誰もが何度も考えついたであろう安易な自己肯定で結論づけたって、すぐにまた悩むことになるのだ。
7÷3をずっと解き続けてるような霧の中を抜けるためには、そう。
お金を出してまでも、読みたくなるような文章を書けるようになること。
ページを捲る指が止まらない、勝手に心が動いてしまう文章を書けるようになること。
これしかない。私は、そこから逃げてはいけないのだと思う。
でないと、かの精神科医の方のように、執筆が好きな私は消えてしまうことになる。
それは、私から優しさが消えてしまうことを意味する。
それだけは絶対にいやだ。
私は私のやり方で、資本主義の荒波に対峙してやろうじゃないか。
ここに、私の決意を表したい。