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アウトプットを崇拝していたバカな私へ

吾輩は猫を被るニンゲンである。名前はぽん乃助という。

それは、5年ほど前の話だ。インターネット上では、「アウトプット」が大事だという風潮になった。ベストセラーの著書でも、「アウトプット」がキーワードになった。

ニンゲンたちは、スマホという端末を手にして以来、SNSやブログ等で「文字」を通じた発信を活発にするようになったと思えば、YouTubeやTikiok等で「動画」を通じた発信も活発にするようにもなった。

そして、成功した発信者たちは、私利私欲を満たすための金鉱は「アウトプット」にあると煽るようになった。

その煽りを真に受けたニンゲンたちは、「アウトプット」を崇拝した。

何を隠そう。私も「アウトプット」を崇拝したバカな一人だ。

そして今だって、「アウトプット」は「言語化」と表現を変えた形で、煽られ続けている。

まだ、インターネット上で発信している人が少ない頃。確かにあのときは、「アウトプット」に希少価値はあった。

会議室で誰も発言しない中、口火を切る人は、その勇気を讃えられるのは然るべきだ。

でも、5年後の今はどうだろうか?

皆、流行りのニュースに飛びついて、顔も見えないインターネット上のニンゲンたちの顔色をうかがいながら、共感や批判の意見を表明する。

誰かが口火を切った会議室で、誰かの意見に乗っかったり批判したりするように。

今は誰もがお喋りになっていて、むしろ自分の意見を表明せずに話を聴く人のほうが、希少価値があるのかもしれない。

そこで、私は気づくわけである。

どの時代でも輝いている奴は、「アウトプット」は程々に、「インプット」を大事にしていたということに。

きょうは、今更そんなことに気付いたバカな私の心をえぐっていくことにする。

子供のとき、一人取り残されるということが多かった。

不器用で準備が遅かったから、気付いたら周りに誰もいない。

LINEグループで発言しても、まるで居ない存在のようにスルーされることがよくある。

そんなことが多かったから、人と一緒にいても孤独感がうずく。

「私なんて、居ても居なくても一緒じゃないか。」

一人でいるのは、居心地が良かった。でも、「自分を見つけてほしい」という寂しい気持ちがいつも付きまとっていた。

今思えば、それがインターネットで文章を綴り始めたきっかけの一つなのかもしれない。

私が綴った文字を読んでくれる人がいれば、自身の存在を証明ができる。

ありがたいことに、私はブログやSNSをはじめたときから、自分の文章を読んでくれる人がいた。

だけど、私は脆弱なニンゲンだった。

「もっと、自分の文章を読んでもらいたい。書くことを仕事にしたい。そして、文章を通じて自分自身の存在をみんなに認めてほしい。」

この思いを「夢」と形容して美化してる奴も多いけど、端的に言えば「欲」だ。

この欲が、私を悪い方向に突き動かした。

Googleでよく検索されるキーワードから逆算して文章を書くようになったのだ。

あの時の私は、文章を書いていたのではない。書かされていたのだ。

私は、自分を見つけてほしいだけだった。

なのに、自分の本心を裏切り、肥大する欲望に負けて大衆に迎合していた。

ただ、こんな私でも、性根は死んでいなかった。

心の奥底で細い声で、こう叫び続けていた。

「お前がやりたいのは、そんなことなのか?」

その声が聞こえるようになったのは、最近になってのことだった。

主人公がタイムリープをしようが、生まれ変わろうが、もうそんな設定に誰も驚かない。

一昔前は目新しくてみんなが面白がっていたものを、「どうせループものだろ」と一蹴されてしまう。

チヤホヤされてた有名人も一瞬で消えるようになり、「一発屋」という称号すら名付けてもらえないのが今の時代だ。

そんな中、インターネットを見ると、ニンゲンたちは自分の存在を認識してもらうために文字と音声と動画をアウトプットし、それがノイズのようにひしめいている。

そして、私が何か文字を書いたところで、ノイズとなって消えゆくことは重々わかっている。わかっているんだ。

でも、バカな私は文字を書きたいのだ。「未だ誰も見ぬ面白い」と思えるものを書きたいのだ。

世の中を見ていると、飽きられずに「未だ誰も見ぬ面白い」ものを産み続ける人がいる。

そういう人を見ていると、圧倒的に「知っている」ことが多いのだ。幾度とインターネットで炎上しようと、その人しか語れないことがあるから蘇り続ける。

「未だ誰も見ぬ面白い」を書きたいと思ったって、愚直にアウトプットし続けたところで、その域には到達できない。

表現方法を強い攻撃口調にするだけで一瞬は目立つ人もいるけど、すぐに飽きられて消え去る。

アウトプットする人が増えたからこそ、今はアウトプットの中身が問われている。

しょうもない内容をアウトプットした時点で見切られてしまい、すぐにその人の存在が薄れてしまう。

では、アウトプットの質を高めるための方法とは?

それは、アウトプットしまくればいいのではない。それを凌駕りょうがする圧倒的なインプットが必要なのだ。

インプットを得られるのは、本や映画のような作品だけでなく、普段の生活の中で何気なく感じとるものもそうだ。

好きな作品を何度も見返したり、好きな人とばかり話したり、それだけではダメなんだと思う。

食わず嫌いをせず、不安だと感じるものにも立ち向かい、苦痛を感じることでしか得られないインプットだってある。

限られた時間の中で、私にとっては呼吸と同じ意味を持つ執筆を減らしてでも、全身全霊でインプットのシャワーを浴びていきたい。

たぶん、社会で生きる人に共通して言えることだと思う。

昔のように、「英語話せるのすごい!」「マクロ組めるのすごい!」なんて、今の世の中では言われない。

今や、AIよりも価値のあるものを産むことが、どんなニンゲンにも求められている。

難しいと敬遠していた本や映画を鑑賞したり、普段話さない人と話したり、新しい体験をしたりするのは、エネルギーが必要だ。多くの人は、そんな面倒なことを避けようとする。

だからこそ、私は何かを犠牲にしても、インプットをしていきたい。いや、私のような不器用なニンゲンは、インプットをしなければフツウに生きていけない。

そうすることで、私の存在を面白いと思って、見つけてくれる人がいると信じて。

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