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「プライドが高い」って言われましても。

嫌なことを言われると、そのことがずっと、頭に残り続ける。

やがて、嫌なことを言ってきた人を見ると、吐き気がしてくる。

そんな感覚を久々に味わった。

多少の嫌味では狼狽うろたえることはないと思ってたけれど、私はまだまだ未熟のようだ。

みんながいる前で、執拗しつように見下すような言動を繰り返され、私の中の閾値しきいちを超えた瞬間、その人と目を合わせることもできなくなってしまった。

私はこういうモードにおちいると、誰に対しても心が閉鎖的になる。

誰にも弱みを見せないように、言葉を選ぶようになる。

そして、烏合うごうしゅうの中で本当の自分を消してゆく。

そうやって殻にこもらないと生きられない軟弱な自分が、とても嫌いだ

だって、世の中には誹謗中傷ひぼうちゅうしょうを浴びても、すぐに忘れる人がいる。むしろそれが、活力になってしまう人もいる。

でも、どうしたって嫌な言葉を忘れることは、私にはできない。

相手の言葉に傷つきやすい私は、こう言われることがあった。

「プライドが高い」と。

傷つきやすいのは、自分のせいなのか?

私はそう言われ、自責した。

残酷なことに、傷ついている姿を人前で見せると、余計に攻撃されやすくなる。

SNSでは、もっと残酷だ。謝罪している人を、みんなで踏みつけるように攻撃する。

だから、嫌なことを言われても鈍感なふりをする。

「それ嫌味だよ?」って言われたって、不思議そうな顔をする。

心が深く傷ついていても、見ないふりをしていれば痛覚はなくなる。

けれど、本当は気づいていたんだ。ずっと胸の痛みを我慢していたことに。

物心を覚えた時から、私たちは集団生活を送らなければならない。

私はずっと、集団生活が嫌いだった。

修学旅行の前日になると、楽しみで眠れない人が多い中、私は吐き気をもよおすほどの嫌気で眠ることができなかった。

そして、集団生活は今でも好きじゃない。

大勢で盛り上がっている人たちを見ても、みんな周りの顔色をうかがって、面白いと感じている素振そぶりをしているだけじゃないかと。

私の目には、そんな穿うがった見え方がしてしまう。それくらい、私は集団生活で嫌な思いをしてきた。

私は、周りから何を言ってもいいと思われやすい性質を持っている。

「いじめられる側に原因がある」という言説には否定的な意見もあるけど、いじめられやすかった私からすれば、これは正しいと思う。

その証左しょうさに、環境が変わったって私は、嫌なことを言われることから逃れることができなかった。

5人くらいでご飯を食べていると、自分のあらがネタになり、周りから集中砲火される。

そして、ひとりで必死に抵抗しようとも残り4人の口撃こうげきには勝てず、なぜか自分が悪者になる。

そして、最後には「プライドが高い」と言い放たれる。

そういえば、私はこれまで、心が傷ついているときにいたわりの言葉をもらうことが少なかった。

だから私は、集団から身をかわすことに慣れきってしまった。

子どもの世界でも大人の世界でも、都合よくいじれる生贄いけにえがいることで、それが磁石のように集団の結束力を強くする。

その人がいなくなれば、また他の人の生贄いけにえが必要になる。

私は、自らが生贄いけにえになりやすいことを知っているから、世の中に点在するグループには属さないことに決めた。

大学生のとき、そんな私に「悲しい人間」だと言う同級生がいた。

私は、映画の『ジョーカー』を見て、共感をしてしまうような人間だ。

はたまた、アニメの『ぼっち・ざ・ろっく』を見て、共感してしまうような人間でもある。

だけど、私は悲劇のヒーローやヒロインになりきってえつに浸りたいとは、微塵みじんも思わない。

「プライドが高い」って言われましても、私は気高けだかく生きたいのだ。

プライドが高くて、自分よがりで、些細な不平不満の主張ばっかりする。

SNSではこういう人が目立っているけど、実世界でこんな人を見ることなんてそうそうない。

だけど、そうした人の数以上に、「プライドが高い」という言葉をよく耳にする。

どうしてだろうか?

私はこう思う。「プライドが高い」と言うことで、傷つく言葉を言ってもいい免罪符にしているのだと。

だって、傷つく言葉を言ってるのに、傷ついた相手のせいにしているのだから。

確かに、いじめを受ける人に原因があるのは正しいのかもしれない。だからと言って、いじめてもいい理由になるわけがない。

理屈では説明できないけれど、人を傷つけることを正当化するのは、道理として間違っていると思う。

もろいガラスをいくら加工したって、強い衝撃を与えれば割れてしまう。

それと同じで、傷つきやすい心を持っていても、強くするのには限界がある。

私はそんな心を持って生まれてしまったのだから、もう仕方ないのだ。

そんな私が自分らしく生きていくために、私自身に手紙をてることにする。


「プライドが高い」と言われて、自分を責めていた私へ

相手は、私のためにプライドを下げようとしているのではない。相手自身が、私を玩具おもちゃにして快楽を得るために、プライドを捨てさせようとしているのだ。

だから、自責しまくって、プライドまでは捨てちゃいけない。もし捨てたら、自分の人生が誰かに奪われることになる。

もし誰かに悪口を言われたって、1か月も会わなければ、人間はお互い忘れるようにできている。

そして、君は大丈夫なふりをしてるけど、胸の痛みと怒りの気持ちで我慢の限界なんだ。

だから、悪口を言うような奴に認めてもらおうなんて、頑張る必要はない。

そんな奴とは目も合わさず、会話もする必要なんてない。

そして、「悲しい人間」だと言われようと、気高く生きるために集団から離れて孤高に生きるのは悪いことじゃない。

みんなと同じじゃなくたって、それを理解してくれる人とだけ、深く関わればいい。

それが、傷つきやすい私が私であるために、幸せになれる道なんだ。

そして、何度でも言おう。プライドだけは、絶対に捨てるな。

「プライドが高い」と言われようが、気高く生きている未来の自分より

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