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言語化よりも大事なこと
「言語化」という言葉。
タコができるほど、最近よく耳にするようになった。
それは、人に気持ちをうまく伝えられずに、悩んでいる人が多い証左のようにも思える。
昨今は、テレビやネットでも、言語化が上手な人にスポットライトが当てられることが多い。
言語化が上手になりたい。
言葉の力で、みんなの目の前の靄を振り払えるような人間になりたい。
私は、ずっとずっと、そう祈っていた。
けれど最近、私は疑問に思う。
何でもかんでも言語化することを目指すことが、果たして正しいのだろうか?
私はこれまで、恋愛リアリティーショーというコンテンツに対して、ミジンコ程度の興味も持っていなかった。
そんな私であったが、最近、バチェロレッテ(バチェラーの男女逆転版)の最新作である3rdシーズンを視聴した。
妻が見せてきて、権力の弱い私には当然拒否する術がなかった。
簡単にこの番組を説明すれば、素敵な女性1人に対して、志願者の複数の男性が争って脱落していき、最後に女性が一人の男性を選ぶという企画だ。
しょうもない内容だと思っていたけど、結果的に言えば、とても楽しんでしまった。
見てもいないコンテンツを軽視していた自分が、とても恥ずべき存在に思えた。
そんなことはさておき、バチェロレッテを見ていて、私は一つ考えさせられることがあった。
余計なひと言を口にしてしまって、相手の心象を悪くしたシーンがとても多かったのだ。
逆に、うまく言語化できないことが、状況を好転させるシーンも多かった。
そして思ったのだ。
私は、言語化の沼に毒されているのではないかと。
◇
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「どうしても伝えなければならない。」
バチェロレッテの中では、この言葉がよく飛び交っていた。
けれど、伝えたところで相手の心はなかなか動かない。
BGMとカメラワークというものは偉大だ。視聴者にとっては、そんなシーンでさえも美しく映える。
けれど、冷静に見てしまうと、「それが伝えたかったことなの?」と頭の上に疑問符が浮かぶことが多かった。
そんな中、志願者の男性の一人が、伝えたいことを伝えられないまま脱落してしまうシーンがあった。
伝えたいことは、自分自身のトラウマであった。
最終的にその人は自分の中で気持ちを消化し、伝えたかったことは口にせず、「ありがとう」という言葉を残して立ち去っていった。
私はこのシーンを見て、なんて粋なのだろうと思ってしまった。
傍から見たって、もし言語化していたら、安っぽくなっていたのは想像に難くなかった。
ふと、我に返って考えてみる。
私はこれまで、どれだけ余計なものを言語化してきただろうか?
そう考えてみたものの、恐ろしいことに、それを自覚するのはとても難しい。
「そんなこと言わない方がいいよ」と、親切に諭してくれる人なんていない。
SNSを見れば、それは一目瞭然だ。言語化する必要のない言葉が、あまりに飛び交いすぎている。
けれど、それは言う必要がなかったと、自覚できないのだ。
それどころか、「どうしても伝えなければならない」という狂気じみた正義心に侵されていることもある。
抑圧された世界から抜け出すためには、言葉が必要だ。しかし、SNSが登場してから、言語化するのがあまりに簡単になってしまった。
余計な言葉が飛び交うたびに、言葉の重みがどんどん軽くなっていっている。
この風潮は、ネットだけじゃなくて、リアル世界にも押し寄せているように思う。
私はこれまで、自分の言葉を持つことで強くなると信じてきた。
ただ、ここ最近、久々に自分の陰口というものを聞いてしまった。
私の言葉に、穿った解釈が加えられていたのだ。まるで、今流行りの切り抜き動画のように。
きっと、私は余計なことを言語化していたのだろう。
そこでやっと、言語化至上主義に陥ってしまっていたのだと、自覚したのであった。
◇
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「あなたにとって人間関係とは」と問われたら、いくら歳をとっても、「難しい」という感想から変わることはない。
言葉にできずに人間関係がうまくいかないこともあれば、言葉にしたことで人間関係がうまくいかないこともある。
いまの私は、言葉が軽くなってしまっている。だからこそ、隙が生まれてしまっている。
私にとって、言語化よりも大事なこと。それは、沈黙だ。
これは、決して我慢するということではない。
言語化できるけどあえて言語化しないという積極的な沈黙が、私には必要なのだろう。
沈黙を増やすことができれば、「伝えたいこと」がより洗練されていく。
そうか。言語化と沈黙は、逆の概念だと思っていたけど、表裏一体なんだ。
言語化が上手な人を、指を咥えながら見て、「どうやって表現すればいいのだろう?」とばかり考えていた。
でも、私のような弱くて口下手な人間は、真似たところでできるわけがない。
そんな私でもできることは、「何を言わないか」を選ぶことなんだ。
それは、「何を言うか」を選ぶことでもある。
私はこんなことを考えなければ、明日を生きていくこともできない。
そんな自分が、とても嫌いだ。多分、ずっと嫌いなままだと思う。
けれど、めげずに明日を生きる術を考えようとしている。
私の心の炎は、まだ灯っている。
そんな自分を今日ばかりは肯定して、早く寝ることにしよう。