明日が来てほしくない、そんな雨夜に。
梅雨の季節。雨が止んだって生乾きのコンクリートの匂いが漂ってくる。
今日も、仕事で夜遅くなってしまった。陰鬱とした気持ちに、追い打ちをかけてくる。
駅から自宅までは、幾分遠い。賑やかなの駅前は嘘のように、周りには誰もいなくなる。
人間関係で何度も苦労してきたはずなのに、それでも私は今でも苦労している。
夜道で一人になると、心の傷は、とても沁みて痛くなる。
その瞬間、私のシャツが血で滲んだ気がした。あるはずもない痛覚が、私の歩みを止めた。
おもむろにイヤホンを鞄から取り出して、THE BOOMの「風になりたい」を聴きはじめた。
私は小さいときから、明日が来てほしくない時に、この曲を聞くことにしている。
空を見上げた。そこにあったのは、張り巡らされた電線。
下を見ると、消えかかる「止まれ」の文字と、地面の継ぎ接ぎ。
線ばかり。世の中は線に囲まれすぎている。
「レールを外れる人になれ」って、よく言われるけど。
線の内側でいるか、外側でいるか。単にそれだけの話。
レールというものを意識してる時点で、線にとらわれているのだ。
線って、本当に大事なのだろうか。
そんなことを考えていると、しとしと雨が降り始めてきた。
やがて雨は、イヤホンの音を遮るほどに、ざーっと強くなった。
視界がぼんやりとしてくる。耳が雨音に支配されていく。線が溶けてゆく。
傘をさしても、水が靴に入り込んでくる。心地悪くて、早く帰りたい。
でも、よく考えてみれば、これは今の私の人間関係の苦労みたいなものなのかもしれない。
中途半端に、傘で境界線を作っている。だからこそ、隙間から入ってくる水が気になってしまう。
いっそのこと、傘を閉じてみることにした。そしたら、無性に自由を感じた。
人の心にも、同じことを言えるのかもしれない。
自他の境界線を引けないと、他人に振り回されやすくなるとよく言われる。
だから、私は何度だって、頭の中で線を引こうとしてきた。
でも、中途半端に線を引くと、余計につらくなる。
他人にとって、私はモブの一人にすぎない。でも、私の目線では、私自身が主人公として生きなければいけない。
この矛盾が、ずっと苦しかったんだと思う。
自分を大事にしたいのに、他人との関係性を大事にして自分の首を絞める。
私はずっと、自ら貧乏くじを引いてきたように思う。
でも、そう思うのは、自分と外界を分け隔てる線を気にしすぎているから。
映画の主人公だって、カメラの位置を変えれば、単なるモブにすぎない。
私は主人公であり、モブであり、それは矛盾ではない。
解像度を上げることが大事といわれる世の中だけど、そんな生き方は、人生2周目以降の器用な人間たちに任せることにしよう。
もっと流れに身を任せて。曖昧さを大事に。今すぐ、風になりたい。
けれど、明日になれば、また現実に引き戻される。
明日が来てほしくないと願えば願うほど、夜眠れなくなる。
ただ、微睡の世界だけが、時間と空間で区切られた線が溶け合う。
私のような不器用な人間でも、その世界では、曖昧であることを肯定してくれる。
…
気づけば、耳から流れていた『風になりたい』がとっくに終わっていた。
シャツを通してきた生ぬるい水が、全身を伝う。
心の痛みで血の滲んだシャツが、夜雨で洗い流された気がした。
ふふ、こんなところで考え事してずぶ濡れになるなんて、馬鹿みたい。
そんなことを思いながら、すっかり濡れて重くなった靴で、私はまた帰路を歩んでいた。
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