20世紀最後のボンボン 第三部 メンロパーク篇 第一章 戦いの始まり
今でこそ、メンロパークはマーク・ザッカーバーグ率いる
フェイスブックのおかげか世界的に有名な街になったが、
ボンボンとカンクン君と私が住み始めた1994年はまだ
眠りから覚めていないところだった。
この写真はカルトレインのメンロパーク駅から
エルカミノ道路沿いの名物本屋の
Kepler'sの方向を映しているが、同時にカリフォルニアの
のんきな青い空もよく映りこんでいる。
駅前の写真というのは、知らない場所でもなぜか私は
心惹かれるのである。
最初のアメリカ生活が終わりに近づいたころ(2014年)も
一度か二度しか降りたことのない福岡のとある駅の
風景をみて心を揺さぶられた記憶がある。
なんというか、行きかう人の雑踏とか生活が
見えてしまって、その人たち一人一人が
愛おしくなるのである。
ボンボンは行ってからすぐにメンロパークの商工会議所に登録して、
いろいろな会合のイベントに顔を出していた。
いろいろな人を家に招いていた。
そう!
いろいろな人が家に来るのは五番町のときから
そうだった。
外で面白い人がいるとみんな家に招待して、
家で話をした。
メンロパークは白人だらけのところだった。
それは当時はおそらく安全だというしるしのようなものだった。
日本にだけ住んでいた私たちにとって
アメリカというと白人のことであったわけだが、
メンロパークはまさにアメリカ人の街だった。
ちょうど引っ越した日が感謝祭の前日で、もちろん私たちは
街が全部お休みになることなど知らなかった。
けれども隣のジュリーがすぐにやってきて、
チョコレートケーキを今焼いたところだから
といって、手渡してくれた。
なんと気が利く人なのか。
ボンボンも私も感激した。
少し落ち着いてから、
一軒一軒あいさつに3人でまわった。
みんなカンクン君が小さいので、それだけで
大歓迎だった。
赤ちゃんが大好きなのだ。
私たちはとても歓迎されたnewcomer(転入者)だった。
東京に住んでいると裏の裏まで読んでしまって
本当に歓迎されているのかと考えてしまうが、
アメリカ人は自分に嘘はつかないので、
歓迎されていると信じることができた。
私にはとても気楽な場所だった。
深読みしなくていい点で。
そして家の前の道がおばあちゃんの住んでいた仙川の家のそばの道に
そっくりだったので。
不安は全くなかった。
とにかく頑張って結果を出す。
それだけ考えていた。
続きは20世紀最後のボンボン 第三部 メンロパーク篇
第二章 奇妙な自転車泥棒
でどうぞ。