20世紀最後のボンボン 第二部 サンフランシスコ篇 第三章 南下
サンフランシスコの6月はとても過ごしやすく8月は寒い。
毛皮のコートを着ているマダムもよく見かけた。
それも当時のご時世。今なら、ブーイングですね。
非常識だって。毛皮なんか誰も着ませんって。
1990年代半ばだと、まだヒッチコックの映画
(1958年のVertigoー邦題ーめまい、
1963年のBirds-邦題ー鳥)
の中にある通りの
サンフランシスコが残っていました。たくさん。
8月にはずいぶん暮らしが慣れてきて、
ボンボンは昔、留学していた当時、
とてもいい街だと聞いていたメンロパークと
いうところに小旅行をしようと言い出した。
それはサンフランシスコからは南に
20キロくらいのところで、スタンフォード大学
のそばだった。
それで、スタンフォードパークホテル
に3日くらい泊って、スタンフォード大学や
その付近を散歩しに行くことになった。
サンフランシスコの8月はむしろ寒かったのだが、
スタンフォードの8月は異常に暑かった。
私はスペインを旅行した時のことを思い出していた。
それはスタンフォード大学のキャンパスがスペイン風な作りだったことも関
係あると思うし、もともとカリフォルニア自体、スペインが侵攻してきた過
去があるので、スペイン語があふれていたし、風土がスペインに似ていたと
いうことも関係あるかもしれない。
実際、カリフォルニアをヨーロッパ人がはじめて訪れたのは
日本でいえば、安土桃山時代、鉄砲やキリスト教が伝来された15世紀半ば当
時のことで、航海技術に秀でたポルトガル人だったということだ。もともと
スペイン人はメキシコに入っていたので、そこを北上したのだと考えれば、
地理的には無理がない。それに風土が似ているため、農業を展開するのにも
あまり違和感がなかったのではないかと5世紀あとの私たちでも想像できそ
うだった。
それに思い出してみると、Landscape Architectureの大学院の授業のとき、教
授がソノマよりももっと北のカリフォルニアの風土とか火山の様子はイタリ
アにそっくりだと話していたし。
ベスビオス火山のような噴火が起きてもおかしくないと
(まさにカリフォルニアは地震が多いです。)話していたなあ、とか。
カリフォルニアはブドウ畑も多くありますし、ワインもおいしくなってきま
した。私たちが住み始めたころはさほどでもなかったですが、
21世紀に入るころには大分、おいしくなっていました。ナパやソノマのあた
りですとカプコンの社長が手塩にかけたケンゾーワインが有名ですよね。
サンフランシスコのしゃれたレストランでは、そのワインが楽しめます。東
京でも扱いのある店を何軒か見かけました。
結局私たちは、あまりにも暑いのと、不慣れな場所だったこともあり、
スタンフォードパークホテルからあまり外に出ることもなく、
過ごしましたが、一か所だけ、観光に行きました。
それがAllied Art Guild
住宅街に不意に現れるのですが、いろいろなアートの店が並んでいて、お庭
もとてもきれいに整備されていて、結婚式のパーテイにも使われ、レストラ
ンは近くの主婦たちがボランテイアで経営して、利益はすべて、近くの子供
のための病院に寄付されているということでした。
私はちょっとドイツのニュルンベルグの街にあった職人の村を思い出してい
ました。アートの職人のアトリエが独立して存在しているような場所で、
ヨーロッパの香あふれる文化的な場所でした。
サンフランシスコとは別の意味で、異国情緒で、美しい場所でした。
ボンボンもそこでパナマ帽を買って、かぶり、庭園を満喫し、
メンロパークを大変気に入りました。そこでボンボンはまたいろいろな人と
たくさん話して、日本人で、そのあたりの不動産を扱っている児玉さんとい
うご婦人のことを知ることになります。最終的にはその方が私たちの不動産
をすべて扱ってくださったのですが、その話はまたの機会にします。
太陽がじりじりと照り付けて、私たち3人はほとほと疲れ果てて、
またサンフランシスコの部屋に戻り、プールの隣のジャグジーで
一息休んで、一階のイタリアンレストランで、ゆっくり夕食を食べ、
部屋に戻り、サンフランシスコの夜景を楽しみました。
20世紀最後のボンボン 第二部 サンフランシスコ篇
第四章 ベンツで登場
に続く