20世紀最後のボンボン 第一部 東京篇第十九章 ドキュメンタリーを創る
ボンボンは社会貢献のため、渡米することになったのだが、
私は大学院で、ドキュメンタリー映画を専攻することにした。
それで学生ビザを5年とった。ドキュメンタリーといっても、
私は全共闘
の映画を夜中にはしごで見たことはあっても、
自分で、何かを撮影したことはほぼなかった。
しいて言えば、大学で、インタビューのクラブを作っていて、
そこで、学園祭のとき、イベントを企画した程度で、その時の
記録のビデオも私は編集までは立ち会っていなかった。
だいたい編集の意味など知る由もなかった。
それでもソニーのハンデイカム55が出たばかりで、
それをもって、29になる春にヨーロッパに出かけ、
確かウイーンの観覧車
で、グワングワンに揺れている画面をとって、
大顰蹙(だいひんしゅく)を買ったくらいがせいぜいだった。
けれども、一方で、指導をしているときに、社会情勢の説明をしようと思っても、
学校が使う教科書には古い写真しか載っていないし、テレビで映るニュースもどこかフィルターがかかっていて、
本当のことを映していないことはちょっと何度か海外に出かければ、だれでもわかることだったので、映像の教科書みたいなものを作れないのか、と模索していた。
映画はよく見ていた。
もともと極端なので、19歳の時に、1年で、本を500冊読み、映画を350本見た。
それが高じて、20歳の時には本屋で一日、12時間アルバイトするなどして、
とにかく本を濫読していた。本屋で働いていると、実際、割引もあり、ゴヤ
の画集なども購入して眺めていた思い出もある。そういう狂気的な積み重ね
があったので、いざ、アメリカに留学するというときに、やはり映像の学部
をみてみたいと思った。
当時の私にとってはヨーロッパは歴史もあり非常に知的な印象があったが、
アメリカはDisneylandとレーガン大統領に代表される、とても、軽薄なもの
しかなかった。(実はこの想いには、その後も何度も悩まされました。そして、ずっと、アメリカに行った理由を考えていました。その答えがようやく出たので、興味のある人は読んでみて下さい。
https://shoutout.wix.com/so/65NsjI7Fw?languageTag=en
時代は一気に現代に飛んでいます。そこだけご注意を!)
けれども、何回か海外に旅行に行ったときに、英語でその国の人と話してみ
たいという強烈な欲求はずっと持っていたので、せっかくサンフランシスコ
に行くなら、フィルムを勉強したいと思うのはそう不自然でもなかった。
赤ちゃんを育てながら、指導を続けながら、TOEFLやGRE(大学院入試に必
要なテスト)の勉強をした。
ボンボンは会社を辞めてまで、新しいこの生活にかけていたと思う。
私もこの生活のために、親も捨て、親類も捨て、アメリカに留学することを
選んだのだった。
それはバブルがはじけた後、日本はどんどん閉塞感が
広がって、ますます何にもなれない感がにじみ出ているころだったからとい
うのはあった。そのときにはまさかそのあと、失われた20年ということにな
るなど予想もしていなかったが、ちょうど坂本龍一さんが渡米したころで、
できれば、一度、外から日本を見たいところでもあった。
私も当時30かそこらの小娘で、何者でもなく、意志と時間だけが無限にある若者だった。
ボンボンの送迎会を兼ねて、ホテルで披露宴を催すことになった。
そのときに、ボンボンの活動の沿革をビデオを作ることになり、それをすべ
て私が行った。有名人のブロマイドを著作権ごと手に入れたり、ビデオ制作
会社の人と、会議をして、一本のドキュメンタリーをとにかく作り上げた。
そして披露宴で、エンドレスでBGMで映像を流した。
それがニューオータニでおこなった二度目のウェデイングドレスだった。
カンクン君は一歳になるところだったがバギーで、会場に向かった。
ボンボンは2時間しゃべり倒し、さらには、I left my heart in San Francisco を
独唱し、最後は私も一緒にいい日旅立ちを歌いながら、会場を回り、和やか
に会は終了した。
二時間ほどの宴だったがカンクン君も疲れ果てて、
帰宅後、3人で即座に眠りにおちた。