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20世紀最後のボンボン  第二部 サンフランシスコ篇  第四章 ベンツで登場


私たちのサンフランシスコでの生活を語るとき

児玉ひな子さんの存在を語らずしては何も始まりません。

考えてみますと彼女は私の母と同じくらいの年でしたので、

私が初めてお会いした時、60歳は軽く過ぎていたと思います。

でも私よりちょっと年上くらいにしか見えませんでした。

お父様が東大のお医者様で、彼女自身、リケジョで、

津田塾の出身でした。

「結婚が嫌で、アメリカに逃げてまいりましたのよ。」と

美しい日本語で話される彼女の姿はいかにもボンボンの

ライフスタイルにあっていて、話が弾んでいました。

最初はFAXで不動産情報を流してくださっていたのですが、

ついにある日、みんなで見学に行くことになりました。

当日、コンドミニアムのロータリーに古いベンツ


で颯爽と来られた彼女の姿は本当にCOOLでした。

ひな子さんは最初は化学系のアメリカの会社にお勤めだった

そうですが、リストラで、首を切られ、一念発起して、

不動産はもともと興味があったからということと、家のつくりなど

化学の知識がいかせることがあるということで、資格を取って、

不動産業を始めたということでした。

凛としていらして、とことん、調べてくださったり、交渉してくださったり

して、私はひな子様とお呼びしたいほどでした。もともと

私はいろいろ学ぶことが多いので、年上の知的で品のある女性が好きで、こ

の方についてはまた折に触れてエピソードを書いていきたいです。

3件ほど見学の家を用意してくださっていたのですが、ボンボンは

一軒目で、オーナーのボブにほれ込み、お互いハグして、話が弾み、

他にもバイヤーはいたのですが、最終的にボブがボンボンに譲りたいといっ

てくれて、私たちが住んでいいことになりました。

ボンボンは他の二軒は見もしませんでした。


その家はボンボンが思い描いていた典型的なアメリカの家で、前庭には芝生

が美しく整備されていて、白い壁の家で、バックヤードにはプールが一面に

ありました。(この写真はネットで拾ったもので我が家ではありませんがだ

いたいの感じは似ています。)


アメリカでも家を購入するにはすぐにできるということはありません。まず

金額を決めて申し込みをして、いろいろな条件に基づいてオーナーがバイ

ヤーを決めます。そのうえで、ローンの条件とか職業のこととかでさらに審

査があります。けれども、私たちは外国人なので、そもそもローンという選

択肢がほぼなかったと思います。

こういう案件はボンボンしか絶対に無理なのです。ボンボンはキャッシュで

その家を購入しました。けれどもそのすべての手続きが終了するまでには2

カ月はかかったと思います。

ボンボンはずっとアメリカに住みたかったそうです。それが今回いろいろな

条件が整って、息子と住むことができるようになって、これ以上のことはな

いという喜びようでした。日本とのしがらみから本当に自由になったと感じ

ていたと思います。


メンロパークは1990年代半ば当時はまだ地価の上昇も進んでおらず、買

い時だったと思います。


カリフォルニアの気候はいつも素晴らしく晴れていて、絶対に

否定的な気持ちになりません。そこが東京に住んでいたころとは決定的に違

うことだと思います。行きかう人が明るくあいさつし、お互いを誉めあう。

この習慣に私たちがどれだけ救われたかわかりません。

私が結局、20年カリフォルニアにいたのはこの明るさに魅せられたからだと

いっても言い過ぎではないと思います。


物事の明るい面を見る という習慣は、人を前向きにします。



20世紀最後のボンボン 第二部 サンフランシスコ篇 第五章 霧とケーブルカー

に続く

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Suji Atherton
What an amazing choice you made! Thank you very much. Let's fly over the rainbow together!