20世紀最後のボンボン 第一部 東京篇 第十二章 まさかのゴールデンウイーク
私は赤ちゃんに茶太郎というニックネームを
付けて、よく話しかけていた。
ずっと気持ち悪かったが、指導に毎日出かけていた。
7か月後に出産することを考えれば、新しい仕事を引き受けるべきでなかっ
たかもしれないが、私自身、妊娠について、よくわかっていなかった部分が
あった。確か中学校の家庭科で、習ったように思うが、それからあと考える
機会がなかった。それに妊娠自体、ずっと無縁の生活をしていたから。体温
を測ったこともなければ、何か気を付けることもわからなかった。
妊婦検診に行く日がやってきた。
4月の終わりが近づいたころだった。
赤ちゃんが育っていないということだった。
そのとき、ピンポイントで思い当たったのは
マンハッタンで、無理やり雪の中を船に乗って、自由の女神を見に行った
時、とても寒かったことだ。
ニューヨークの3月は意外と寒い。それは住んでいればわかることだが、私
たちは日本の3月くらいの服装しかもっていっていなかった。もちろん、何
日も雪だったら、オーバーも買ったであろうが、その時は急に冷え込んで雪
になったのだ。だから足元はハイヒールだったことを覚えていた。
ふだんはハイヒールを履かないのに、新婚旅行でニューヨークを歩くという
ので、浮かれていたと思う。
あれから具合がどんどん悪くなっていた。
それでもハネムーンから帰らずに予定通り、
回ったのだ。
具合が悪かったのなら、
寝ていればよかったのだ。
けれども、初めてのニューヨークで、
私もボンボンも興奮していた。
ちょっと具合が悪いくらい、
で旅行に行かないのはできなかったと思う。
それに私は身体が丈夫だったから、
そのうちよくなる、と事態を軽く考えていた。
それに実際、何でもない日もあった。
けれども考えてみれば、
赤ちゃんが悲鳴を上げていたのだ。
私は女医に子供は死んでいるのかと聞いた。
女医はそれには答えず、このままにしておくと
母体に影響が出るから、
中絶しないといけないといった。
急転直下であった。
そのまま病院に残り、手術をしたのだと思う。
麻酔のせいか、あまり覚えていなかった。
ただ異様に、おそらく子宮が収縮を続けており、それで、
言うに言われぬ痛みというか、
子宮を這い上がる痛みの線を感じた。
気持ちが滅入るばかりだった。
「茶太郎、ごめんね。」
とつぶやいた。
これからどうすればいいのだろう、
もう二度と子供はできないと、
どん底まで沈んでいった。
女医はこういうときは個室にいると
もっと気が滅入るから、ほかの人がいる、
大部屋のほうがいいと勧めてくれた。
ボンボンもすぐやってきて、
「大変だったね。今はとにかくよく休みなさい。何も考えないで、
よく眠るんですよ。」
と抱きしめて優しく声をかけてくれた。
うなづいたものの、やはり涙が止まらなかった。
私が殺したんだと思った。
すぐ退院して、芝の増上寺で、供養をして、子供のお坊さんのお人形を買っ
てきて、お仏壇に飾り、麻布山のお墓にも名前を記した。
毎日お祈りを続けていた。
そして翌週から仕事に戻った。
とにかく何かをし続けないと、
気持ちが持たなかった。
ボンボンも気を使ってお花を多めに買ってきてくれたり、
いつもは暗いので、絶対に行かない映画館も
一緒に行ってくれた。
ボンボンは自分が年を取っているから、
子供が成長しなかったのかもしれないと
考えて責任を感じていたらしい。
ボンボンはいろいろ歌を歌って慰めてくれた。
実際、ボンボンは松田トシに歌を習っていた。
いい声だったし、表現がとてもよかった。
石原裕次郎の「夜霧よ今夜もありがとう」や
シューベルトの「野ばら」を歌ってくれた。
私たちは年齢差があるので、共通の歌は
ウルトラマンとかタイガーマスクくらいしかなかった。
私がアタックナンバーワンをセリフ付きで歌うと
ボンボンにはとても受けた。
タイガーマスクの終わりの歌で、「みなしごのバラード」という
歌が私もボンボンも好きで、一緒によく歌っていたが、この時ばかりは二人
で泣きながら歌った。
そしてまた二人で、絨毯の上に横になって、
ゴロゴロ転がった。
第十三章 思い につづく