アラサーの平和学習 アラサーだって平和学習し続けます。
先日、友人と平和記念資料館に行った。
広島なのに、広島の方言がほとんど聞こえてこない不思議な空間。
スペイン語と英語がよく聞こえた。
人種も日本人のほうが少なくて、その日は白人の方々が多く目についた。
広島なのに、私がいつもいる広島とは少し違っている。新鮮。
今までも何度か見た、おなじみの展示なのだけど、今回は母校の第一県女(現皆実高校)、弟の通う一中(現国泰寺高校)の生徒の遺品が多く目に入る。
最近頻繁に会う高校の同級生たちとの楽しいひととき、
弟の日々頼もしくなる姿を思い出すと、
胸が苦しくなり、遺品によっては見ていられなくなった。
わたしは高校生まで平和学習が大嫌いで、
8月6日も嫌いだった。
表面上は、平和を祈る姿勢を作るけれど、
心の扉は閉じていて、8月6日や平和教育に関して新しいことを吸収する姿勢は持てなかった。当時は、それでも最低限持ってるつもりだった。
「もうわかってるから。平和の大事さわかってるから。ほんとに。」
そんな感じだった。
毎年似たようなことしかやってないと思っていた。
実際一緒だったのか、毎年違う内容だったかさえも覚えていない。
変わったのは、大学に入ってから。
原爆ドームも嫌いで、小学校3年生で広島に引っ越してきて、一度見に行って以来見に行くことはなかった。
大学の先輩に誘われて原爆ドーム前にキャンドルを灯す活動に参加した。原爆ドームを見たのは、2回目だった。
最初は暇だし行こうかなくらいだった。
夕日もきれいで、行き交う人々が灯籠流しやキャンドルを眺めては、
ほほ笑みを浮かべて去っていく。
これまでの平和学習と違う。
終わる頃には、私の心は完全に開いていて、
目の前に灯るキャンドル、キャンドルを見つめる人々の姿を見ていると、
ときどき涙がにじむ。
泣くと変な人だと思われてはいけないと、少し気を紛らわせてこらえた。
悲惨な過去を知ることも大事だけど、
色彩を持った、自分の周りの風景をしっかり見つめること、
どうやってその風景を守っていくのか、育てていくのかを
考えることが私には一番の平和学習になった。
その後、改めて過去の悲しい現実を見つめようと、
資料館に行ったり、ネットで調べたりしながら、
ヒロシマについて学んでいった。
戦争が政治の手段なのであれば、
戦争反対の意思だけでなく、平和を維持していくために、
個人で何ができるのだろう、どう政治に関わっていけばいいのかな、どんな仕組みが必要なのかなと考えていく機会を未来を担っていく子どもたちと話してみたいと思う。
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