無敵の「勝手に」主義。
私は物心つくかつかないかの頃から物書きになるものだと、そしてなれるものだと勝手に思い込んでいた。
まだ本をまともに読んだこともなく、物書きという職業がいかなるものかも知らないガキが、どうやら家族や親族に吹聴してもいたらしいのだから、見あげたものである。
いつだったか長野の実家に帰省したおりに、祖母が当てつけのように私に向かっていったものだ。
「おらぁ厭でぇ、こんなエロ小説書くようになったら」
祖母がそう嘆きながら示したのは、山田風太郎氏の「くノ一忍法帖」だった。
この著作をエロ小説と断じられた山田氏もいいツラの皮だが、たしかにエロも売り物にもしていて、たまたま叔父の書架から引っ張り出してペラペラやっていると、そのなかに「乳房」という単語があって、それに類するエロい語彙や表現を貪るように拾い読みしていたのだった。
そのときの浅ましい私の姿を目にした祖母が、将来を悲観しての忠告だったのかもしれない。
努力はしないまま、とにかく物書きになるという信念だけは持ちつづけたが、その登竜門がどこにあるのか、あるいはその職につく方法論を私は持ちあわせていなかった。
とりあえず懸賞にでも応募するのが一般的なのだろうが、なにぶん作品を書いたこともないからそれもできない。
ただ「私は物書きになるはずだ」という信念があるだけ。
いたずらに時間だけが過ぎていき、不惑を迎えようとするころ、さすがにそろそろ結果を出さなければと焦りはじめた。
しかし、取り付くシマもなく、はてさてどうしたものかと思案していたころ、ある本が話題になってそのまま物書きになったコピーライターの女性が現れた。
さっそく彼女の著書を古本屋で仕入れて読んでみたところ…、評判ほどに面白くもなく、それほどうまいわけでもなく、…なーんだ、この程度の文章なら俺にもかけるぜ、とお得意の勘違いを発動したのだった。
その勘違いをバネに、私は一気呵成に本一冊分の原稿を書きあげた。
平成6年、1994年のことだった。
タイトルは『「時代の気分」はもう二日酔い。』
ローカルのコピーライターの生態を、当時売れっ子だった椎名誠氏の文章を参考に面白おかしく書いて、ウケを狙ったのだ。
そのころの私は、どうやら文章を書く仕事らしい、と知人に薦められたコピーライターを生業にしていた。
とある小さな広告プロダクションでカタチだけの面接を受けてみたところ、その場で採用が決まり、さっそく「コピーライター」の名刺を作るようにいわれた。
そしてその日から私は、コピーライターになっていた。
余談だが、最初に書いたコピーはある喫茶店の雑誌広告。
何時間かウンウン唸って出てきたコピーが、
「ちょっと、ひと休み。」
だった。(笑)
なんのひねりもインパクトもない、ただの駄コピー。その稚拙さだけは嗤える、というテイのものだった。
それでも私はコピーライターになったのだったし、それからは一応コピーライターを名乗れる身にはなれたのだった。
コピーライターから物書きへ。
私にも「おいしい、生活。」が待っているはずだ。
くだんの女性と同じ登竜門から、物書きの世界へと潜り込めるではないか…。
私はひとり、心ときめかしていた。
(つづく)