「触れ合い」への揺り戻し

コロナの影響で世界の常識が変わり、「触れ合いへの忌避」が今後起きてくるのでは…という話を最近よく聞くけど、個人的には「安心して触れ合える人とそうでない人」のギャップが大きくなるだけで、「触れ合い」そのものの価値はむしろ高まるんじゃないかと思うのだがどうだろう。

人は触れ合いを採って生きている

スキンシップ神話でよく取り沙汰されるお話に、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世が行った50人の赤ちゃんに衣食住の世話だけ行い話しかけや顔を覗き込んだりスキンシップを一切行わなかった実験があるが、被験者の50人の赤ちゃん全員が1歳まで育つこと無く死んだと言う。人間は、成長の過程で、会話やスキンシップによる刺激を必要としているということを証明していると思う。

今、接触が出来なくなっているのはコロナ感染の危険性による衛生的社会的必要性からだが、今目の前の常識となって来つつある触れ合わないことを前提とした状態は、このまま新しい常識として定着するだろうか?
根本的に人間の身体が元々会話やスキンシップを必要とするとしたら難しいのではないだろうか?テレワークやZOOM会議をストレス無くやれる人もいるだろうけど、スキンシップを完全に切り捨てたり視覚・聴覚データだけに置き換えられる身体を持つ人達が多数を占める様になる前に、コロナ感染のリスクが下がればなんからの形で、確実に「触れ合い」への揺り戻しは来るだろう。
では、どうなるのか?

「触れ合える」価値の高騰

おそらく「安心して触れ合える人とそうでない人」の線引がこれまでより厳し目になるのではないだろうか。
それは「触れ合う」ことの希少性・価値が高まることであり、同時に「触れ合える関係」の価値が高まることにもつながると思う。
触れ合えるということは「安心して接触出来る存在だと認められている」ということの証明であり、それは気軽に触れ合えない世界においては相手にとってグンと近い存在だと言えるからだ。

それは逆転すれば「人と触れ合う機会が持てない」ことは「安心して接触できない人間」である証拠として見られるということだ。
そういう人たちを馬鹿にする言葉・ラベルが作られるだろう。そういう属性として見られていることに絶望したり怒り焦る人も出てくるだろう。そういう人の中には、相手の許諾を得ず無理矢理触れ合おうとする人たちも出てくるかもしれない。
「触れ合える人とそうでない人」のギャップをビジネスにする人々も出てくるだろうし、ギャップへの怨嗟や煩悶をセミナーや宗教やサークルなどへの入り口にする人々も出てくるのではないだろうか。

もしそうなったとして、演劇のような、客と表現者が時間空間を共有する表現行為のもつ、意味・価値はどういうものになるだろうか。

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