ミカって呼んでいい?

 御神本百合子はテーブル上の配置にとても神経質で、二人掛けには少し狭いほどの席を選んでも、必ずこの儀式めいたテーブルセッティングは行われる。中央に据えられた金の燭台から対称に水の入ったグラスをひとつずつ並べて、左端には気味の悪い笑みを浮かべた太陽のオブジェを、右端には三日月を据えて、それらはすべて定規で直線を引いたように整列している。
 決まった席に座るなら来る時間を見計らって準備しておいてやってもいいんだけど、わざわざ毎回別の席を選ぶものだからやりようがない。
 百合子に何故こんなことをしているのか尋ねたら、「刹那を逃さないように」と言った。刹那?と俺が聞き返すと、「七五分の一秒」と澄ました声色で答えて、伏していた視線を上げて長い睫毛で仰ぐようにゆっくりと瞬きをした。意図は分からないが、百合子は何かが訪れる一瞬を待っているらしい。

「すごい雨だな。もう上がりだったのに帰りそびれたよ」
「しばらく止みそうにないね。困ったな、新しい鞄を濡らしたくない」
「信者に迎えに来てもらって、服の中にでも入れてもらえば?」
「彼らは私のものに触れられない掟がある」
「へえ。俺はいいの?」
 試しにグラスのひとつを手に取って水を飲んだが百合子は微動だにしない。塩水だったので俺は少し顔を顰めた。百合子の完璧なテーブルセッティングはいつも定位置で変化の無いように見えるが、実は二つのグラスの中身が塩水と砂糖水どちらであるかに規則性はない。もしかしたら時々俺が手を出すのを見越して入れ替えているかもしれないが。

「鴨宮は特別だから」
 百合子は小さな唇を緩やかな弧にして微笑んだ。
 頻繁に来店するわけでもなければ紅茶一杯しか頼まない百合子のために、店で使っているものではないグラスやキャンドルやマッチ、あげく気味の悪い置物まで「特別」に用意されているのは、百合子がオーナーの娘であるからだ。ここでのバイト初日に教わることの一つである。
 百合子が特別であるのはこの店でだけでなく、学校でなんてもはや神様のような存在になっているらしい。なんでも「ミカ様」と呼び慕う取り巻きがいて、その集団の中には自治や戒律があるのだという。普通は「百合子様」とか「ユリ様」になりそうなものの、御神本(珍しい苗字だから気になるのも分かるが)からとった愛称なのは百合子の指示らしかった。
 神々しいまでの美しさを思わず崇めてしまう気持ちは理解できるが、俺は百合子をそういう対象にしてしまいたくない。たとえば百合子がティーカップを持ち上げる時、ときどき小指が浮いてしまいそうになるのを見ると愛しくてたまらなくなる。

「ミカって呼んでいい?」
 向こうのテーブルから聞こえてきた会話が百合子にも聞こえたのか、目が合ったけれど何も言わなかった。
 雨足が強まっているせいか、さっきから有線のクラシックが乱れがちだ。俺は百合子の指がおもむろに三日月のオブジェの輪郭をなぞるのと、テーブルの中央で空調にわずかに揺れるキャンドルの炎を眺めて、雨が止むのを待っている。

◇◇◇

 鴨宮さんは覚えていないだろうけど、私が中学生のときに駅でハンカチを拾ってもらったことがある。そのときに一目惚れして、私の初恋が始まった。
 鴨宮さんの隣にはその日も女の子がいて、私に落とし物を手渡したあと二人は手を繋いで歩いていった。彼女がいても、そんなのはのちに気にするべきことで、私はまず同じ高校に行かなければならないと思った。そうしないとこの恋が終わってしまうというのが、一番の気がかりだった。
 幸にして鴨宮さんは県で二番目の進学校の制服を着ていたので、私は恋心から道を誤ることなく、より良い高校を目指して勉強をがんばる模範的な受験生になった。そうして誰にも疑われることなく順風満帆に恋をしていたつもりだったのだが、勉強しすぎて名門の大学附属校に行けることになってしまった。
 難関高の合格を蹴って二番目の高校へ行きたい理由を、恋の話を伏せたまま周囲に説明できるほど私は器用でなかった。いまだって誰かに話すのは少し恥ずかしいけど、一目惚れした人と同じ高校に通いたい、と親や友達に告げるのは、中学三年生の私には途方もないくらいの勇気の要ることで、恋をしていることを秘密にするほかなかったのだ。

 私の高校には「ミカ様」という、容姿端麗で頭脳明晰なお嬢様が先輩にいて、もちろん一年生の間でも有名人だ。「ミカ様」は御神本というめずらしい苗字から来ていて、私は「百合子様」と名前で呼ぶ方がしっくり来そうなのになといつも思う。だってミカ様は、本当に白百合の花が月夜に輝くような美しさなのだ。ほかの生徒たちの例に漏れず、私も熱烈ではないにせよミカ様のファンである。
 喫茶ミカエルのアルバイトの求人を見つけたのは本当に偶然で、ミカ様のお母様が経営しているお店だとはつゆも知らず、そしてまさか鴨宮さんがいるなんて夢にも思わなかった!
 初めは高揚感に胸を躍らせていたけれど、そのうち私はおそろしいほどの二つの偶然にさだめのようなものを感じることになった。私の初めての恋はやぶれて終わってしまうのだと、ミカ様と鴨宮さんが同じテーブルに着いているのを見るたびに確信を強めるばかりだ。だって、絵画のような二人の間に私が割って入っても、同じ絵画の世界へ行けようか。

 鴨宮さんは女の子と話すのにとても馴れていて、あのミカ様を相手にしてさえも憚らず「百合子」と呼んでいて、緊張している感じは全然しない。
 私はミカ様には敵わないと思いつつも、まだ恋は終わっていないと心の奥底で燃えるほのかな期待の灯が消えてしまわないように、まずは名前で呼んでもらうのを目標に据えてチャンスを待っている。
 どうしてミカ様と呼ばないのか聞いてみたら、少し考えて、「百合子って呼ぶほうが仲良しっぽいじゃん」と鴨宮さんは言った。そのときに私は、やっぱり鴨宮さんのことが好きで、あきらめたくないと思ったのだ。

「ミカって呼んでいい?」
 昼下がりに入ってきた大学生くらいの男女のテーブルから、その一言だけやけに鮮明に聞こえてきた。急などしゃ降りで帰れなくなった鴨宮さんはぼやいていたけど、少しでも長く居てくれて私はうれしい。
 喫茶ミカエルのアイドルタイムはいつも通りの閑散で、キッチンの片隅で鴨宮さんがいれてくれた紅茶を飲みながら、私も呼び捨てで呼んでもらいたいなあ、なんて考えている。雨はまだ止まない。

◇◇◇

 俳優をやってみればよかったかもなとふと思ったが、大仰な衣装や胡散臭い背広を着て「教材」のビデオに何本か出たし、馬鹿みたいに分厚い眼鏡をかけて講師として登壇する日もあれば、Vシネから飛び出してきたような格好で、お決まりの台詞を捲し立てながら玄関の扉を蹴り飛ばしたこともあるから、それもすでに叶った夢だった。有線のクラシックに混じる大雨の音を聴きながら昨晩行きつけの居酒屋で常連の暇な老人たちとした与太話の続きをぼんやり考えている。

 俺には未練がないようだ。もう一度人生をやり直せるならば、月並みなところでは女や家庭がどうのこうのという話になるが、好き好んで独り身を選んだ俺には縁が薄い。もちろん無いことはないが、あの時、という大きな後悔は思い浮かばず、取りこぼした選択を悔やむを気持ちより、過ぎ去ったことも含めて懐かしむことのできる慕情のほうがはるかにある。
 まあ、取り戻したいのは身体機能くらいだな。この歳になれば、そりゃあ当時の健啖を誰しも恋しく思うものだ。膝を壊す前にもっと色んなスポーツをやってみたかった。
 駅前のロータリーをぐるぐるぐるぐると、若い連中がスケートボードで駆け巡っているのがどうも楽しそうでつい目が行く。見かけるのは俺の通院日で、病院へ行くためのバスを待つターミナルの窓から彼らを眺めているので、よけいに羨ましく思うのかもしれない。

 金盥に高いところから勢いよく水を流し込むような雨音は弱まる気配なく続いていて、今は傘を持ってこなかったことを後悔している。こういう現状のささやかな未練や反省はたえずある。少しばかり空が陰っていたが、まあ持ち堪えるだろうとたかを括って出かけたらあっと言う間に曇天になった。
 おまけに慌てて入った喫茶店がハズレだった。店に落ち度があるわけではない。紅茶がメインの喫茶店だと知らずに入って面食らったが、確かに美味くて文句はない。妙な言い方をするのは、居合わせた客がどうも耳に障る会話をしているからだ。

 向こうの席で大学生か新卒くらいの、二十半ばくらいの男女が歓談している。見てくれも声のトーンも普通で、べつに下卑た話で盛り上がっているわけでもない。主にトレーニングの話をしている。二人とも健康的な雰囲気で、身体つきが良いのでなんらかのスポーツやジム仲間なのだろう。
 男が将来の展望を語っているのに「森さん」は微笑みながら頷き、時にはその男を褒めて、そしてしきりに「私の尊敬する人に会ってほしい」と言う。鈍感にも男は乗り気で、女の取り計らいで「起業家たちとフットサルで気軽に交流」するところまで話が進んだ。女はフットサルには来ないらしい。

 おいおい、どう考えても勧誘だろ!俺は今すぐにでも会話に割り込んで、強引に場を壊したいのを堪えている。
 いや、ああいう自信に満ちた今時の若者は、見知らぬ年寄りの説教には聞く耳持たないだろう。女が席を外したその隙スマートに、あんた担がれてるぜ、と煙草をふかしながら不意に呟くほうが案外信じるかもしれない。俺は俳優のように一芝居打ってやる覚悟をした。

「ミカって呼んでいい?」
 男は浮ついた声で女に言った。俺はこの大雨が通り過ぎるか、女が席を立つのを待っている。

◇◇◇

 その巨大な猫はミカエルという名前で、首輪にリードをつないでいるのは犬と同じように散歩に出かけるためらしい。メインクーンという猫はおおむねみんな大柄なようだが、ミカエルは特に大きく見えた。
 喫茶ミカエルの店前にある公衆電話のとなりに置かれた椅子は猫のためのものらしく、知らずに腰掛けていたら中年の女性に声をかけられた。私が咄嗟に席を立とうとするといいのいいの!とよく通る声で制して、少しの間だけ猫を見ていてくれないかと、番を頼まれた。私は特に断る理由がなかったので引き受けた。どうせ母が迎えに来るまでやることはなくて、ただ楽譜をめくっているよりは巨大な猫を眺めるほうがずいぶん楽しいだろう。
 大人しい子だから大丈夫と言いながら、リードを椅子へ繋いで喫茶店へ入っていった。


 ミカエル、と呼んでみても無反応で、おいで、と言ってみても地面にへばりついた塊のまま動かない。大人しいというのは、人懐こい性格ではないという意味も含んでいるのかもしれなかった。
 私の方から近づこうと立ち上がると、ミカエルは空いた椅子へすかさず飛び乗った。まんまと席を奪われてなんだかなあという気分だったが、柔らかそうな毛並みをそっと撫でてみると心地良さげに鳴いて、目を細めて微睡んでいるのを見るとかわいくて口元が緩んだ。
 巨大な猫のミカエルに会ったのはそれきりだ。通りすがりに横目で空の椅子を見て落胆するのを何度か繰り返して、ついにピアノ教室をやめてしまったので喫茶ミカエルの前で母の迎えを待つこともなくなった。

 仕事で行くのは自分にとって遠い場所にある喫茶店にしている。遠いというのは距離でも心の問題でもいい。たとえば公共交通機関で行くには乗り換えを三度しないといけないだとか、別れた恋人とよく行った店だとか。
 仕事が上手くいくのも今のうちだけで、限りのあることだと分かっているから、長く続けようとは思っていない。手持ちの「都合の良い」喫茶店にみんな行き尽くしたら辞めようと思っている。
 矢野くんは留学して社会学を勉強しながらバリスタの修行をして、帰国後は都市部でカフェチェーンを起業したいらしい。社会学とバリスタと起業は私の中で上手く結びつかないけど、べつにわざわざ指摘しない。それは私が最初に辿ったように少しばかり昔話を要するだろう。私にとって喫茶ミカエルが過去の場所であるのを説明するためには、ピアノ教室と公衆電話と巨大な猫の思い出を語らなければならないように。

 喫茶ミカエルは外観と相違ないクラシックな趣の喫茶店で、しかし敷居はそれほど高くない気軽に立ち寄れる感じもする。土曜だからか店員はおそらく学生の若いアルバイトたちで、私たちの後に初老の男性客が入ったところで大雨になり客足が途切れた。男の子の店員は、客席の離れたテーブルにいる美人な女の子のテーブルで暇を持て余している。


 またジムの帰りに来ようと言っているけど、矢野くんをフットサル交流会に呼び込んで、その先は別の人に仕事を引き継ぐことになっている。ちょうど帰省を終えるところで、私は明日でこの町を離れるし、喫茶ミカエルに来ることはもう無いだろう。
 小学生の頃の思い出の喫茶店に入ってみても意外になんとも思わないものだ。突然の大雨のせいもあってつい気も漫ろになる。店内のクラシックの有線の調子がさっきから悪いようで、時々ノイズが入るのばかり気になっている。

「ミカって呼んでいい?」
 鞄からハンカチを取り出していたところで、白猫の刺繍にミカエルを重ねていて、「私」の名前が呼ばれたことに気が付かなかった。

◇◇◇

 ブレーカーの落ちる音がした。音楽と照明の消えた店内は途端に時が止まったようで、テーブル上のキャンドルだけが唯一の灯りだ。百合子は月光を帯びたように美しく青白い指を俺の頬へ這わして、鼻先が触れ合いそうなほど顔を寄せると、楽しげに囁いた。

「ミカって呼んでいいよ」