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もしも魯迅が仙台に留学してなかったら?

魯迅がかつて学んだ旧仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)。
留学120周年ということで、特別企画展が開催され、魯迅が授業を受けていた階段教室が特別に週末も一般開放されている(2024年11月)。

階段教室で、魯迅がいつも座っていたとされる3列目の席に座ってみる。

魯迅、仙台になじめなかったのかな。
ふとそんな考えが頭をよぎる。

明治37年、日露戦争の年。
漫画で言うなら「鬼滅の刃」や「ゴールデンカムイ」の時代設定よりも前。

展示品によると、東京で日本語を学んでいる際に同じ清国留学生たちの遊興する様子に辟易し、同国人がいない仙台へとあえて転校したにも関わらず、仙台での滞在はわずか1年半。思っていたよりずっと短いことに驚く。

日本人の学友と一緒に街に出かけたり、それなりに楽しく過ごしていたようだけれど、その反面、気候が寒い点や下宿への不満をもらしていたり、どことなく東京での暮らしの快適さと比べている節も見られる。

当時の仙台の人口は約10万人だったそう。
それに対して中国は今も昔も人が多い(清朝末期時点で人口約4億人)。

紹興市の現在の人口は約500万人。魯迅の時代ですら100万人は超えていただろうし、作品「孔乙己」に登場する咸亨酒店の描写からしても、紹興は仙台に比べてずっとずっと活気のある街だったろう。

それに科挙至上主義の中国では、実学である医学は軽視されていたはず。読書人の家庭で生まれ育った魯迅にとって、かつては清国より格下であったはずの小国のさらに小さな街で、人に自慢もできないような学問に励んでいることに、どことなく都落ち感を覚えていたのでは。

しかも明治と言えば、近代文学がさしずめ今のYoutubeのように斬新でキラキラしていた時代。東京にいれば、著名な文豪と交流したり、作品を書いて同じ舞台に立つことができるかもしれないのだ。東京には弟の周作人もいるし。

魯迅と言えば仙台のイメージがあるけれど、実は東京に住んでいた期間の方がずっと長い。短い仙台留学中もなぜだか東京在住の友人とはるばる箱根まで旅行している。

「国の病気を治すのでは医学ではなく文学」と文学に転向し仙台を離れたのは有名な話だけれど、帰国後に勤務した福建や広州の大学でもなじめなかったようだし、「やっぱり都会がいい‼︎」というのが本音だったりして?
昨今の若者と変わらないようで、何だか親近感がわいてきた。

もしも魯迅が仙台に留学に来ていなかったら?

東京で医学校に通い、弟も同郷の友人も近くにいて、学業もプライベートも充実していたなら?東京での生活に満足して、そのまま医師になっていたなら?

仙台に留学することがなければ、作品「藤野先生」はもちろん存在しないし、もしかすると小説を書くこともなかったかもしれない。

日本文化に関心を持ち、5年間の東京留学中に日本人女性と結婚し、同じ文学者でありながら日中関係に翻弄され中国ではタブー視されてきた弟の周作人と、近代中国屈指の文豪として歴史に名を遺す魯迅。
2人の道を分けたのは、仙台で過ごした1年間だったのかもしれない。

当時はなかったであろう蛍光灯に明るく照らされた教室、120年前のものとは思えない手入れの行き届いた机、魯迅が座り藤野先生の授業を受けていたであろう席で、そんな思いにふけってみる。


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