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自分が持っているものさしの目盛は、

人のお話が好きで。

昔は本の文字という形、最近は人の声という形から、自分の中に取り込んでいる。

取り込んでいるというか、流し込んでいるというか。


噛み砕いて消化して、自分を動かすエネルギーにしているというより、
「私、こんなことを知っているんです」な顔をするためだけに使っている!

そう気づいた。

これは……
ダッサいな。カッコわる。コワ。。

何かを勘違いしていますよね、アナタ。
そんな声が聞こえました。


別に、追体験というものを否定する気はない。
他人の人生には、自分には持ち得ないものがたくさん詰まっているので、すごーく面白い。
なんなら未来の自分へのいましめにもなる。
転ばぬ先の杖にもなる。

しかし。

他人のものさしだけを使い続けるのはいかがなものか。


例えば。

津波を目の当たりにした人には、その波がどのように押し寄せ、何を押し流し、どのくらいをかけて引いていったかを体験した。

一方、津波を目の当たりにしていない私は、津波がどのような原理で押し寄せ、押し流したものがどれだけあり、無くなったモノがどれほどのものかを後に聞き及んだ。

津波は恐ろしい。
どちらもそう知っている。

だが、私にとっての『津波は恐ろしい』という感情は、腹の底から全身へと震えが走るものではない。
しょせん、
「こわいねー、来てほしくないねー」
である。なんとも薄くてペラペラだ。


そんな『恐ろしい』というペラペラな感情ものさし、果たして何かの役に立てることができるだろうか。
有事の判断基準になり得るだろうか。

役立つものさしとは、目盛がきちんと書かれたものである。

目盛とは、実感をともなうことで刻まれるのではないか。
刻むとは、痛い面白い悔しい笑いが止まらない涙が止まらない、そういう生々しいものである。


果たして、自分はものさしを手にしているのか。
持っているものさしには目盛がついているのか。
生々しさを直視できているのか。



できてないよなあ。
手にしているはずのもの、恥ずかしいのか何か知らないけど、直視できていないよなあ。
反省。。。


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