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幼年期【勝山】

保育園にはいつもおじいさんが連れて行ってくれていた。
家から徒歩5分ほどの、信号をわたってすぐそこにある、近所の保育園。


保育園の横は比較的新しい集合住宅地で、町で唯一3階建以上の建築物が並んでいたけれど人はあまり住んで居ないというその場所と状況が不気味に思えてちょっと苦手だった。
集合住宅地のおわりにはお地蔵さんを祀るちいさな祭壇が設られていて、地蔵盆になるとたいへん賑わいお菓子もたくさん貰えるので大好きだった。
なにより、いつも微笑み佇んでいる、涎掛けがお洒落なお地蔵さんが良い。


祭壇から向こうは田んぼと畑がひたすら続く。
田んぼと畑の果てには長くて大きな川を隠す、長くて大きな堤防。
堤防から川を挟んだ向こう側は別世界だからよくわからないけれど、大きな山々が並ぶその様を保育園の運動場から眺めていると、何か自分が大きなものに挑戦しようとしているような、何か大きな運命に立ち向かっているような気分になった。


保育園は毎日保母さんが朝の挨拶を子供たちにするため建物の前に立っていて、保母さんとおじいさんに元気なところを見せなければいけないという使命感を勝手に背負っているが故に、丸い柱を掴んでぐるぐる回りながら「おはようございます」と大きな声で挨拶をすることが日課で、その日も同じように丸い柱を掴んでぐるぐる回りながら保母さんに挨拶をしようとしたところ手が滑って丸い柱から離れてしまい、石材でできた手洗場におでこを強打し横転。
フラフラしながら立ち上がると目の前は真っ赤っかで、それが自分のおでこから流れている血なのだとすぐには理解できず、ただただ流れ続ける血をじっと見続け、血の向こう側、真っ青な顔でこちらを見つめ固まってしまっているおじいさんと保母さんのその表情の意味も最初は理解できず、血に向かって手を伸ばした瞬間襲いかかってきたとてつもなく鋭い痛みですべてを理解し自分はもうすぐ死ぬんだと思い至り、泣き叫ぼうとしたところで意識を失い、目が覚めると、青年期の終わりまで何かとお世話になることになる町のちいさな医院の中でまさに頭を縫わんとするその時で、眼前に迫るか細い糸を引いた針はいまに自分の目に突き刺さりそして片目を失うのだと覚悟を決め、ギュッと目を閉じた。

中年の医師が「あ゛〜そのまま動かないで」という声が、動くと死ぬぞ、と無感情に脅迫しているかのように思え、失った片目からレーザー光線が出るようになった際にはこの医師に復讐しよう、と誓った。

何故かいつも、大きな運命の渦中に自分は居るのだと信じて疑わない少年だった。

理由はわからないけれど麻酔は打たれなかった。縫われる痛みに耐えれた理由はひとえに耐えた方が格好良く、そもそも麻酔という存在を当時知らなかった。
兎にも角にも泣き叫ぶことを我慢した事実に対しおじいさんはとても誉めてくれた。嬉しくて笑うと縫ったばかりのおでこが強く疼き、まるでそこにも心臓があるようで、自分は血が流れ心臓が動いてモノを考えている生物なのだとはじめて実感した。


家に帰ると、おばあさんがたくさん「大丈夫だった?」と声をかけてくれた。誉められると誇らしい気持ちになるけれど、心配されると泣いてしまうので、心配はなるべくされないようにしようと思った。

晩ごはんを、おじいさんとおばあさんと3人で食べる。
父親も住んではいるけれど、晩ご飯をいっしょに食べることはほとんど無い。
ほとんど無いのに、毎日、父親の分まで晩ご飯を用意するおばあさんが可哀想で仕方なく、なので父親のことはすこし嫌いだった。
母親も居たのだけれど、とんと記憶に無い。


家のおかずは食材宅配サービスを頼んでいて、調理はおばあさんが毎日してくれていた。
食材宅配サービスのおかずは特別そんな美味しいと思ったことは無かったけれど、おばあさんが炊いてくれる、5合以上炊くことができる大きなガス釜で炊いた白米に生卵と醤油と味の素を混ぜて食べる玉子ご飯は大好物だった。
特にその日は生きていることをはじめて実感した記念日だったので、いつもより味を強くしようとたくさん醤油をふりかけて食べ、結果その日の夜、高熱を出して翌日まで寝込んだ。


夢を見た。
高熱のおかげで体が軽くなって、おじいさんとおばあさんといっしょに寝ている布団から飛び出し軽快なダンスを踊っていたら体がふわりと床から離れ、天井から家の屋根を擦り抜け、信号を見下ろしながら保育園を通り過ぎ、田んぼと畑の果てにある長くて大きな川を隠す、長くて大きな堤防も飛び越えた先にある別世界に並ぶ大きな山々へと向かう夢。

山の麓には母親の実家があって、母親の実家の近所にはとても自分のことを可愛がってくれるすこし年上のマセた女の子が住んでいる。

彼女のところへ飛んで行くのだ。きっと驚いてくれるはず。
もしかしたら彼女も飛べるかもしれない。
どこへ行こうか。

ドキドキが止まらなかったけれど、どんなに飛んでも山に近付くことは出来ず、なので母親の実家には辿り着けず、帰り道もわからなくなってしまい、額からは血が塗装缶からたれ流れるペンキのように地上に落ちはじめ、最初から血が出ていたら帰り道がわかったのに、この役立たずめ。

もうどうやって空を飛んでいるかわからない。
どうやったら地上に降りれるのかわなからない。
見渡す限りの田園風景を長いながい時間飛び続け、ふと下を見ると、ちいさな祭壇。

いつも微笑み佇んでいる、涎掛けがお洒落なお地蔵さんが佇む祭壇だ!
いつの間にか帰って来れたのだろうか。
とてもとても嬉しかったけれど、それとも実はどこへも遠い場所に、別世界になんて行けていなかったのかと思うと、とてもとても寂しくなった。

そこで目が覚めた。
額に巻いた包帯から、血が滲んで枕を赤く染めていた。

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