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 その嵐の最初の雨粒を受けたのは、わたしではなく他の誰かでもなく麻美だった。と、真奈美は今も思っている。
 生まれて初めて姉に会った時、真奈美は東京の中でも海風の吹き込んでくる土地に住んでいた。そこで生まれ育ったわけではなかった。母親に連れられて、何度か引越した記憶があった。もう会えるとも思えない子供達と郊外の公園で遊んだ様子を思い出したり、誰かわからない近所の家の風呂場を親子で借りて入ったことを思い出すときもある。父親のような何人かの大人の記憶もある。いよいよ定住したからこそ、思い出がよみがえってくるのかもしれなかった。母は、古い昔には宿場町だった、ここの生まれだという。真奈美が一四歳の時に祖父母が死んで、母親は、生家と土地を引き継いだ。祖父母が生きていた時には家は酒屋だったから、しばらく閉めていたものを、自分で再開した。
 学校から帰ってくると、洞窟のような店の中に入った。昼でも明るい店内ではなく、珍しく中二階のある天井の高い空間が、いつもそう感じさせた。近所の住民や飲食店の店主が、よく母親と話しているのだった。多くは、母親の子供時代を知っている者たちだった。真奈美は挨拶はするが、会話に誘われても加わりたいとは思わなかった。
 六月から猛暑は始まった。
 高校からは、旧い街道を歩いて帰ってきた。屋形船の船着場から午後の陽が反射して、船のどこかがぎりりと鳴った。その日は、家に近づくについれ、空気の香りが鋭く感じられた。真奈美は、それはまた海風が入ってきて街の匂いと混在しているからだと思った。その日そう思ったことを、真奈美はいずれ何度も思い返す。
 酒屋の中に、見慣れない女がいた。背が高く、近所から歩いてきたという格好ではなかった。見覚えがあって、立ち止まった。真奈美の足音を聞いて、母と彼女が入り口を見た。母は見たこともないほど面白そうな顔をした。女は驚いていた。ふたりからは、夏の陽射しの中で逆光になった自分はシルエットにしか見えなかったろうと真奈美は思う。
 まなみい、あんたを驚かそうと思ってさあ!
 母が、そう言った。そこにいたのが、姉の麻美だった。会うのは初めてだった。地方都市に、父親、真奈美の父親ではない人と、一緒に暮らしていることは聞かされていた。それ以上に詳しいことを、母は進んで話そうとしなかった。なんでよ、教えてよ、と言っても、色々あったから、今度会えたら聞くといいよ、としか答えてもらえなかった。その今度がいつになるのか分かりはしなかったが、その日、急にめぐってきたのだった。
 歳は四つ離れているはずだから、今は二十一歳か。四つ年上というのは、これほどまでに大人に見えるということなのか。自分がこれから、これほど落ち着いた、これほど整った人間になれるとは考えられなかった。
 ——真奈美ちゃん。
 母には似ていなかった。しかし、見覚えのようなものがあった。急に体が冷えて、何も言えなくなった。
 ——初めまして。
 あんたのお姉ちゃんだよ、という母は、まだ笑っていた。
 麻美を二階へ案内した。真奈美の部屋は表に面していて、窓からは向かいの商店と、その先の高層ビル群が眺められた。
 ——さっきここに来るとき、高層ビルの手前の船着場に行ってきたよ。手前と奥で景色が全然違う。有名な場所でしょ? 写真撮ってる人いた。この一帯、すごく心地いいところだよね。全然うるさくないけど、都会の一部って感じがする。
 そこにある種の寂しさがあるんです、とは、言わなかった。その寂しさはこの人間の生活感が濃く感じられる街道が、港湾地域と高台の高級住宅街に挟まれていることに起因する気がするんです、それは意識のどこかに沁み通ってくるので、耐えがたい人もいるかもしれないんですけど、私はそれが好きなんです。麻美さんもそう思いますか。
 ——窓、開けていいですよ。桟に座ってみてください。よく見えます。
 ——敬語じゃなくていいよ。
 ——そうですか。
 麻美がそうして欲しいのは分かった。それでも、言われる方には無理があった。
 ——そうして、手すりの隙間から脚を出してもいいです。あたし、よくこうしてます。
 ——すごい、漫画みたいだ。
 窓の外側に取り付けられている古い手すりの縦の隙間に、麻美が脚を入れた。
 ——落ちるわけないのに、落ちそうになってるみたいな気分。
 真奈美は、その右足の裏を怪我してますか、とは、訊かなかった。
 
 彩子は、帰り道で、真奈美から初めて会った姉のことを聞かされた。
 ——やっぱり、ずっと感じてた人だった?
 ——うちの店に入る時、酩酊感を感じない?
 ——いつもある。
 ——あたしも住みはじめた頃、ずっとあった。あの日、校門から出たあたりで、初めて入った時みたいな気が遠くなる瞬間があった。あれは、間違いなく、麻美さんのだ。
 屋形船がぎりりと鳴った。
 ——でも今は……
 ——そう今は、別になんともない。
 彩子は唯一、真奈美が他の誰にも教えていないことを知らされていた。晴れている日に、雷が落ちたように思って驚く。調べると、麻美が住んでいる地域で、ひどい雷雨が起こっている。湯船に浸かって目を閉じていると、自分の体が大柄な女性のそれになったように思えてならなくなる。それは、話にだけ聞いていた姉が、経験していることではないのかと思う。学校にいるとき、突然忘れものをしたように思って焦るが、何も忘れていない。それは今、麻美が焦っているのではないか。
 ——お姉さんどこに泊まってるの。
 ——あたしの部屋にいる。全然知らない人と寝てる気分で、いつも緊張して起きる。明日は土曜日だから、色々とふたりで出かける。
 日陰に入った。子供達の声が、真奈美と彩子の横を通り過ぎていった。また日向に出ると、真奈美には自分のよく知った形の影がくっきりと現れた。
 ——お風呂に入ってる時に顔を触ると、いつもと別の顔に感じられる時があるっていうあれ、その顔、お姉さんに似てない?
 ——似てる。そのものだと思う。
 
 麻美を連れて上野などを歩いたあとで商店街に戻ると、あたりは強い西日の陰になっていた。いっそう洞窟じみて見える店の中では、母が電話を受けていた。
 ……さん、キンミヤ焼酎の瓶を割ったみたい。一本届けてくれない?
 こうして近所の飲食店に品物を届けるのは、よくあることだった。
 ——あ、私おとといグラス割って、片付けたあとに残ってた破片踏んで、血がなかなか止まらなくってさ、なんか思い出しちった。私もまなみんについていきたい。
 右足でしたよね、おとといの夜七時ごろでしたよね、とは、訊かなかった。
 道には、人が行き交っていた。古い店を改装することも増えたし、外国人向けの宿もできたから、その年はこれまでよりも賑わっていた。それでも、麻美と歩く時、十字路で建物が途切れると、陽が目の前の全てを奪って、ついでに音も聞こえなくなるような気分になった。駅や電車の中や観光地では話せないことも言えるかもしれなかった。
 ——さっき、ママとは時々会ってたって言いましたよね。あたしのこと、気になりましたか。
 ——気になってた。昔から写真見せてもらってたから、余計にいまどんな姿だろうと思ってた。でも、父親が違う人と会うのを自然に受け入れられるようになるのを待つ、って言ってた。なのに私が来ること、お母さん隠してたんだね。
 ——いつもああです。余計なことばっかりするんです。今もよく早めに店を閉めて、彼氏のところに行ったりします。
 ——奔放だよね。私も大学に入ったら、あんなタイプの人たちがいて、それまでとのギャップに驚いたな。
 母の詳しい行動は、知らない。恋人がいない時より、いる時の方が、機嫌がいい。

 ——でも、羨ましくもあるな、私は。

 瓶を渡すと、すでに母から話を聞いていたであろう店主から、似てるねえ、と言われた。やったねまなみん看板姉妹だと肩を組まれて、麻美を見上げた。
 他人の眼は分からないと思った。
 日曜日の夕方に、麻美は帰っていった。真奈美が学校にいるとき、母とどんな会話があったのかはこの土日の麻美との外出で筒抜けで、忘れないうちにと真奈美は書き残した。

 麻美の住む一帯で出水があり、テレビのニュースでは、麻美の町と隣接するあたりの冠水した道路を映していた。すでに死者が出ていた。青空を見る気も起きないほど晴れ渡っている東京で見ていると、別世界のようだった。
 その連絡があったとき、真奈美は午睡から起きたところだった。階下に降りたとき、母から、麻美が死んだことを教えられた。自動車の中に閉じ込められて脱出できずに溺れ死んだ。洪水の映像をテレビで見てから二日が経っていた。真奈美は、その間なにも感じなかった。
 ……なにも? 洞窟のような室内で、かすかな記憶があったように思った。雲ひとつない数日前、朝方に外へ出ると、右の眼の下に雨が落ちてきた。すぐに手で払ったが、どこも濡れていなかった。商店街の上の空を見ると、雲のかけらひとつ見えず、その後は雫の気配すらなかった。またか、これも麻美さんか、と思ったのを憶えていたから、思い出せた。
 そのあとは麻美の家族とは疎遠のままで、母親も立ち直りが早かったから、彼女の死は真奈美の中に大きな影を落としたとは言えなかった。
 しかし、何もする必要がない時間を過ごしているときなど、もう忘れてもおかしくないはずの麻美の姿が鮮明に思い出された。麻美が真奈美と母親に会いに来たのであれば、なぜ六月に来たのか、なぜ真奈美と時間を長く過ごせる夏休みに入ってからではなかったのか、時間を経るごとに気になったが、母に尋ねるともう忘れたという。
 今、あの時の麻美に会ったとしたら、彼女は驚くほど幼く見えたのでは、自分が高校生だったからはるかに大人びて感じられただけではないかと真奈美は想像することもある。そして今だったら、笑われそうであっても、本人に確かめてみるだけの勇気がある。夜七時ごろ、ガラスの破片を踏みましたよね、ときどき、そういうのが分かるんです。けれど似た話は、誰からも聞かない。誰も気づいていないのか、誰もが秘密にしているのかもしれない。
 麻美が死んだのち、葬儀のために家を出ようとすると、突然ひどい豪雨になって、母はタクシーを呼んだ。近くのマンションに打ちつける雨が、壁に跳ね返って滝のように落ちた。麻美が最後の日に見たのも、こんな景色だったかもしれなかった。
 その嵐の最初の雨粒を受けたのは、わたしではなく他の誰かでもなく麻美だった。と、真奈美は今も思っている。

(2023年9月、文章講座「小説の教室」内で発表)

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